ヨシタケシンスケさんの絵本の「映像化できない」魅力を独自分析。「たくさんの発想」を持つことで視野が広がる
ピカソは「変貌の画家」と呼ばれています。目まぐるしく作風を変えましたが、決してでたらめではなく、そのどれもがたしかなコンセプトに裏打ちされていました。 ■生涯にわたって、常に作風を変えていった ピカソは1881年、スペインで生まれました。父親は美術学校の教師で、ピカソも幼いころから絵を描くことを覚えました。バルセロナにある美術学校を卒業したあと、1900年に初めての個展を開きます。その後、活動の拠点をフランスへ移しました。
この頃、ピカソの作風は「泣く女」とはまったく違います。「青の時代」と呼ばれ、青色を基調とした色彩で市井に生きる人々のすがたを描きました。ひとつの視点から描いていて、人物も写実的です。冷たい雰囲気をたずさえています。しかし、オランダ旅行をきっかけに一転して暖色的な色彩の作品を描くようになり、それは「バラ色の時代」と呼ばれています。 1906年ごろからピカソの関心はアフリカ彫刻や古代イベリアの彫刻に向かい、プリミティヴィズムを希求しはじめます。「アヴィニョンの娘たち」はこの時代の代表的な作品です。伝統的な描き方を捨てて人物を描いています。特にその顔は複数の画風によって描き分けられています。
その後、イタリアのローマを訪れたことをきっかけに「新古典主義の時代」が訪れます。古典的な技法に回帰したのです。このように新奇性に囚われない性格もピカソの革新的なところでした。 そのつぎは「メタモルフォーゼの時代」と呼ばれ、シュルレアリスムの作家たちと交流したことが作風に変化をもたらしました。大胆なデフォルメを取り入れ、スペイン内戦の空爆を主題にした「ゲルニカ」に結実しています。ピカソはスペインの惨禍を象徴的な手法で描き、人類の悲劇を作品に刻みました。
このようにキュビスムはピカソの作風の一側面でしかありません。生涯にわたって作品を作りつづけたピカソは、常に作風を変えていきました。さらに絵画だけでなく、彫刻や陶芸、舞台美術なども制作しました。作品数は14万点を超えると言われています。 ピカソが生きた時代は、芸術家の役割が変わっていった時代とちょうど重なります。権威を持った人物をパトロンにし、肖像画や宗教画を描く時代が終わり、芸術家には新たな役割が求められていました。