邪馬台国論争の「現在地」は?─いまだ決着を見ない古代最大の謎─
■少ない史料を手がかりに研究される邪馬台国論争 日本古代史における最大の関心事のひとつとして、邪馬台国がどこに存在していたのかという場所論が長年とりざたされてきた。この位置にまつわる論争は、つとに江戸時代からなされており、儒学者であった新井白石なども、意見をのべている。 それにもかかわらず位置がいまだに確定されないのは、ひとえに史料の少なさがあげられる。邪馬台国に関する資料としては、中国側の史料である『魏志』倭人伝しか存在しないのである。文字数にしても2000字ほどの内容であり、一部曖あ い昧ま いな部分もある。こうした点が、邪馬台国研究を親しみやすくする一方で、事実の解明を難しくしている。 『魏志』倭人伝には、朝鮮半島に中国が設置した帯方郡から邪馬台国までの方位と距離とが示されている。しかし、その通りに歩みを進めていくと、朝鮮半島から北部九州に達したあと、さらに南下して、鹿児島を経てはるか南方の太平洋上へと至ってしまう。 そこで、『魏志』倭人伝の記述を、あらためて解釈することになる。 ひとつは、方角が正しいが距離が不正確とする見方である。そうすると、邪馬台国の位置は北部九州に落ち着くことになる。 また、距離は正しいが方角に誤りがあり、南と記述されているのが正しくは、東であるとする説もある。このようにとらえると、邪馬台国は近畿ということになる。 しかし、いずれにしても『魏志』倭人伝の記述を都合の良いように改変していることになり、決定的な決め手に欠けるといわざるをえない。 また、近畿説・北部九州説それぞれに、経由地の違いなどで様々な説が提唱されており、現段階では研究途上の段階といえる。 ■近畿説・北部九州説とヤマト政権との関連性 この位置論争は、単に北部九州とか近畿とかといったような場所の問題に終わらない。邪馬台国が存在していた弥生時代後期における、日本列島の社会にも大きな影響をあたえることになる。 邪馬台国が近畿に存在していたとすると、そのあとの時代に成立するヤマト政権につながっていくととらえることが可能である。しかし、その地が北部九州であったとすると、事情が変わってくる。 その場合、おおむね2通りの展開が考えられる。まず、北部九州にあった邪馬台国が、近畿のヤマト政権を滅ぼして近畿へ東遷したと考えられる。さらには、北部九州に邪馬台国があり、近畿にヤマト政権が並立していたが、邪馬台国が滅亡して結果として近畿のヤマト政権が残ったという考えも成立するかと思われる。 これに加えて、邪馬台国がどこにあったかは、北部九州に存在していたとするならば、その規模は近畿の半分ほどのものとなる。 しかし、近畿に邪馬台国が所在したと考えるならば、その勢力圏は、瀬戸内海およびその周辺にまでおよんでおり、さらに北部九州までをも支配下においていたと推測され、邪馬台国の勢力は西日本一帯に及んでいたと考えられる。 監修・文/瀧音能之 歴史人2024年11月号『日本の古代史「空白の4世紀」8つの謎に迫る!』より
歴史人編集部