「なぜこの人生なのか」問う 短編集「富士山」を刊行した平野啓一郎さん
「ナショナリズムの象徴みたいで、あまり好きではなかった」という富士山を、間近で眺めたら印象が変わった。「野性的で、日本の象徴でありながら、日本という国ができる以前の土地の姿が残っていると感じた」。東海道新幹線の座席は富士山が見える窓側ほど人気だということも、最近知った。 【写真】飛行機から見た富士山。雪をかぶった姿が美しい そんな出来事に、新型コロナウイルス禍で感じた人と人との距離感や、婚活マッチングアプリへの関心が絡み、表題作が生まれた。加奈はアプリで知り合った津山と新幹線で旅行に出かける。富士山が見える席に乗り込んだ2人だったが、停車中に起きたある出来事によりすれ違う。車窓からは富士山の片側しか見えない。人間の多面性は自身の変わらぬテーマだ。 他の収録作品「息吹」は、偶然受けた大腸の検査で初期のがんを摘出した男性が、検査を受けずがんを発症したという妄想の世界にのみ込まれていく。「鏡と自画像」では、犯罪を企図した主人公がかつて出合ったドガの絵画や美術教師との対話を思い出す。帯に記した「あり得たかもしれない人生の中で、なぜ、この人生だったのか?」との問いが強くにじむ。 答えのないその問いは自身に向けたものでもある。1975年愛知県生まれ。北九州市で育った。京都大在学中に文芸誌に送った「日蝕」が、99年に芥川賞を受賞した。その後も「マチネの終わりに」「ある男」「本心」といった話題作を放ち続け、確固たる評価を得ている。 恵まれた歩みも「そうじゃなかった可能性の方が大きい」と言う。バブル崩壊後の不況下に社会に出た「ロスジェネ世代」として「万に一つの幸運を引き当てた感じ」もある。努力が全てではない。社会構造、運。幾つもの要素が絡まり合い、人の一生は形作られる。「たくさんの可能性の中のこの人生なのだと意識すれば、うまくいっている人もそうでない人も、社会の見え方が変わるのではないでしょうか」 各話がテーマやイメージで緩やかにつながるよう意識し、わずか5ページの「手先が器用」を経たラストは、人から人へストレスが感染する経路を追いかける「ストレス・リレー」。連鎖は思いがけない行動によって食い止められ、肩の力が抜けるような読後感だ。10年ぶりとなった短編集には、「小説に気張らしや救いを求めている人がいることを、作者として切実に考えた」結果も反映されている。 (諏訪部真) ◇5編を収録した「富士山」は新潮社刊。1870円。