世界文化遺産に登録された「佐渡島の金山」 知っておきたい構成資産の歴史と評価ポイント
令和6年(2024)7月27日、インドのニューデリーで開催された第46回世界遺産委員会において、「佐渡島(さど)の金山」が全会一致で世界文化遺産に登録されることが決まった。日本では21番目の世界文化遺産登録となる。新潟県・佐渡島(佐渡市)に遺存するかつての金山を主体とした鉱山にまつわる産業遺産だ。今回は改めて「佐渡島の金山」がどういった場所なのかご紹介する。 ■「佐渡島の金山」の対象地域とその歴史 対象地域となるのは、相川金銀山・鶴子銀山(「相川鶴子金銀山」としてひとまとめで捉えられている)と西三川砂金山。「16世紀後半から19世紀半ばまでの伝統的手工業による金銀鉱山遺跡群」が該当する。つまり、江戸時代までに開発された鉱山関連史跡である。 相川金銀山は、16~20世紀の日本において国内最大規模の金の産出量を誇っていた。江戸時代~明治時代中期に国の管理下に置かれた際には、貨幣鋳造に利用されて日本全体の財政を支えた。明治以降には機械化による大規模採掘に切り替えられたが、遺構が綺麗に残っており、長きにわたる金の採掘の歴史を今に伝えている。 江戸時代初期には徳川家康によって佐渡代官に任命された大久保長安のもとで計画的な町づくりが進められ、鉱山への道路や港が整備された。人口が増加し、生活物資が全国各地から運び込まれ、相川は鉱山の町として繁栄の時を迎える。この「相川の鉱山町としての景観」も構成資産に含まれる。 天文11年(1542)に発見されたといわれる、佐渡最大の鶴子銀山は、じつに600ヶ所以上にのぼる採掘跡が確認されている。また、この鶴子銀山の開発こそが、前述の相川金銀山が発見・発展のきっかけとなった。 鶴子銀山では、「露頭掘り」(地表近くの鉱石を掘って採る方法)によって銀の採掘が始まり、「ひ追い掘り」(地表の鉱脈を辿って不規則に掘り進める方法)などが取り入れられていたが、やがて島根県・石見銀山から「坑道掘り」(鉱脈がある場所を目指して、山の横側から坑道を掘っていく方法)などの技術がもたらされていたという。 この地域では分業制による作業の効率化によって産出量も増え、多くの労働者が集まって大変な賑わいをみせた。しかし、相川金銀山での採掘が始まると、人々はそちらに移っていく。それでも鶴子銀山での採掘は昭和21年(1946)まで続いていた。 西三川砂金山は、佐渡最古の砂金山だ。平安時代の『今昔物語集』にもそれと思われる記述が見受けられる。ここでは山を掘り崩し、余分な石・土を水で洗い流してからゆり板で砂金を掬い取る「大流し」によって金が生産されていた。これには大量の水が必要なことから、周辺には数多くの水路がつくられた。 江戸時代には相川にある佐渡奉行所からわざわざ「西三川金山役」という職の人間が派遣されるほど重要視されていたが、産出量の減少によって明治5年(1872)に閉山されている。 世界的に機械化が進むなかで、17世紀には世界有数の金生産地となっていたにも関わらず、19世紀半ばまで伝統的手工業による生産技術とそれに適した生産体制を敷いて金を生産していたことを今に伝える遺構や、技術の変遷の跡が残ることなどが高く評価されている。
歴史人編集部