87歳で死去した「道長の娘・彰子」が宮中に及ぼした強大な影響力。実資から「狂乱の極み」と批判されたことも
だが、それと同時に、彰子がただ大人しかったわけではないこともまた『紫式部日記』から読み取れる。教養のある一条天皇に見合う女性になろうとしたのだろう。自ら希望して、誰にも見られないような環境で、式部に漢文を教えてもらっていたようだ。 また、道長が一条天皇の第1皇子である敦康親王ではなく、自身の孫である第2皇子の敦成親王を皇太子にするべく働きかけたときには、彰子は父の身勝手さに失望したようだ。彰子は「丞相(道長)を怨み奉った」と、道長の側近である藤原行成が日記に残している。
自分の子どもが皇太子になる喜びよりも、養母として幼い頃から面倒を見た敦康親王の立場を同情する……彰子にはそういう優しいところがあった。 長和元(1012)年5月には、彰子は亡き一条天皇のために、法華八講を行う。数日かけて営まれる大掛かりな法会にもかかわらず、欠かさず参加した実資に対して、彰子はこんな感謝の言葉を伝えた。 「お追従をしない実資が、八講に日々来訪してくれて、大変悦びに思う」 さらに彰子の「故院の一周忌が終わって、部屋の室礼が喪中から日常に変わったことがしっくりせず、ものさびしい」という言葉も聞くと、実資は女房たちの目の前で涙したという。
気遣いあふれる彰子は、いつしか父の道長に対しても、ただ「怨み奉る」だけではなく、言うべきことをはっきりと言う女性に成長していた。 長和2(1013)年2月、道長が「1人ずつ何か1種類、食べ物を持ち寄ることにして、彰子の御所で宴会を開催しよう」と呼びかけると、彰子はこう言い切ったという。 「最近、中宮・妍子の御所で連日宴会が開かれており、参加の公卿に負担を強いることになっている。今は、権力を握っている父・道長が居るので、皆へつらい従っているが、死んだ後にはみな非難するに違いない。中止すべきである」
父だけではなく、妹の妍子の宴会好きなところにも苦言を呈しながら、道長主催の「持ち寄りパーティ」を中止に追い込んでいる。これには実資も「賢后と申すべきである」と日記で称賛した。その後、わが子である後一条天皇の成長に安心したのか、万寿3(1026)年に彰子は39歳で出家を果たしている。 だが、道長の死後数年が経った長元4(1031)年、彰子が行った石清水八幡宮・住吉社・四天王寺への御幸は、ずいぶん豪華だったらしい。参加者たちの華美な服装や、荘厳な船の様子に、娘にせがまれてやむなく見学に来た実資は「多くは遊楽のためか。世間の人々は驚くばかりだ」と呆れて、さらにこう言っている。