87歳で死去した「道長の娘・彰子」が宮中に及ぼした強大な影響力。実資から「狂乱の極み」と批判されたことも
「狂乱の極みというのは、このことを言うのであろう」 彰子らしからぬ贅沢さは、道長の姉で最初の女院となった藤原詮子の参詣を見習ったものだったらしい。その後、彰子は民に負担を強いるようなことは行っていない。 けれども、実資がこれだけ厳しく批判したのは、この頃から、頼通が不在時には自分が代理を務める立場となっていたことと無関係ではないだろう。「民がどう思うか」と、かつて彰子が道長に厳しい視線を注いだような目で、実資は彰子のことを見ていたのかもしれない。
■二人の皇子に先立たれてしまう 長元9年4月17日(1036年5月15日)、彰子は息子・後一条天皇に先立たれてしまう。『栄花物語』によると、後一条天皇もまた道長と同様に、口が渇いて水を大量に飲んだという。糖尿病だったのだろう。 後一条天皇のもとには、彰子にとっては妹で、道長が倫子との間にできた3女の威子が嫁いでいた。皇女は生まれるものの、皇子が誕生しなかったため、威子は肩身の狭い思いをしていたが、後一条天皇は優しく慰めたという。
『栄花物語』によると、後一条天皇が若くして亡くなったことで、彰子は妹の威子と嘆き悲しんだ。彰子はこんな歌を残している。 「一声も君につげなんほととぎすこの五月雨はやみにまどふと」 (一声だけでも、亡き我が君に伝えてほしい、ほととぎすよ。この五月雨で、子を思う闇に惑っていると) そのうえ、悲嘆のあまり食欲不振に陥った威子までもが、38歳の若さで亡くなってしまった。彰子はたて続けに家族を失うことになった。
後一条天皇のあとには、弟で28歳の敦良親王が第69代・後朱雀天皇として即位。彰子が引き続き、政務への後見を務めたが、即位して10年足らずの寛徳2年1月18日(1045年2月7日)、37歳で命を落としている。 彰子は2人の息子(後一条天皇・後朱雀天皇)に先立たれたうえに、永承元(1046)年正月には、時に辛口でありながらも彰子を高く評価していた、右大臣の実資が90歳で没している。何とも心細い思いがしたに違いない。