連載:アナログ時代のクルマたち|Vol.35 クーパーマセラティT61M モナコ
60年代前半のレーシングカーは不思議なモデルが多い。このクーパーについてもそれが言える。御存知の通りクーパーの名を世に知らしめたのは50年代に画期的なミッドエンジンフォーミュラカーを作り、それがワールドチャンピオンに輝いたことによる。さらには当時デビューしたばかりだったBMCミニをベースに、自らがチューンしたパワフルなエンジンとブレーキを装備したミニクーパーを作り上げ、全世界で大ヒットモデルに仕立てたことでも有名である。 【画像】グッドウッドでも活躍したクーパーマセラティT61M モナコ(写真4点) このミッドシップというレイアウトは当時クーパーのデザイナーをしていたオウエン・マドックのアイデアで、彼はフォーミュラで成功したこのレイアウトをスポーツカーにも取り込んだ。最初のモデルはT39と呼ばれ、フォーミュラ3用のシャシーを使い、コックピット背後にコヴェントリークライマックス製の1.1リッターエンジンを搭載したモデルに仕上げた。マドックは同時に1930年代にその起源を求められるヴニバルト・カムの理論を研究し、T39のボディにそのアイデアを取り入れた。テールエンドをバッサリと切り取られたT39のスタイルは、当時のレーシングカーとしてはかなり奇異だったようで、このデザインに対して懐疑的だったジョン・クーパーは、顧客に対して「リアはトランスポーターに収まらないから切り取らなくてはならなかった」と説明していたようだ。 いずれにせよ、この特異な形をしたデザインのレーシングスポーツは成功を収め、そのテール形状はボブ-テールというニックネームが与えられた。そしてこのT39に次いで開発されたマシンがT49と呼ばれるモデルで、モーリス・トランティニアンがモナコで勝利したこと、そしてその前年にはジャック・ブラバムがミッドエンジンフォーミュラで初めて6位入賞を果たしたモナコに因んで、このT49をクーパー・モナコと名付けた。エンジンはまだコヴェントリークライマックスの1.5リッターもしくは2リッターだった。 1963年になるとクーパーはFIAのグループ7レーシングカーによるレースに参戦を果たすべくシャシーを改造、強化。こうして完成したマシンがT61と呼ばれたモデルである。このマシンの開発に協力したのが、前年でドライバー人生に終止符を打ったキャロル・シェルビーで、彼のフォードとの関係からフォード製の4.7リッター(289)V8エンジンを搭載しハフェーカーもしくはコロッティの4速ミッションと組み合わせたマシンを製作。オリジナルのT61よりは全幅、全長ともに大型化し、車高も4インチ低かったというが、この車こそキングコブラの異名をとったマシンであった。僅か1.1リッターを搭載する設計のマシンに強力なV8を搭載できるのか、冒頭に不思議といったのは、今では考えられないような懐の広いシャシーを持っていたことである。 このキングコブラの存在に注目したのが、当時「ハイ・エフィシェンシー・モーター」というレースチームを率いていたトミー・アトキンスである。彼は1962年のル・マン24時間で侮り難い性能を示したマセラティのV8エンジンに着目した。というのもクーパーT61モナコにはそれ以前から2.5リッターの4気筒マセラティエンジンが搭載されていて、V8がいけるとなれば、マセラティのV8エンジンが彼らにとって最も入手し易く、高性能を得られる手段だったからである。僅か5基しか製造されていないというマセラティのティーポ151の名を持つ4カムV8エンジンは、ボア×ストローク94×89mmの4941ccという排気量で430bhp/7000rpm、コロッティの5速トランスミッションと組み合わされていた。当時のレギュレーションではスペアタイヤは装着タイヤと同じものを搭載する義務があり、その前に巨大なラジエターが装備された関係からノーズは奇妙に盛り上がっている。このマシンをドライブしたのは1959年のル・マン24時間をキャロル・シェルビーとドライブして優勝に導いたロイ・サルバドーリである。 デビューは1964年5月、シルバーストーンのレースでデビューしたが、その時はアルミの外皮が無塗装の状態でレースに臨み、総合2位、クラス1位の成績を残した。その2週間後のグッドウッド・ウィットサントロフィーレースではノーズを赤に、ボディをメタリックグリーンに塗装した姿で見事総合優勝を果たしている。 残念ながら、それ以上の目覚しい成績は残すことができなかったが、ロイ・サルバドーリにとって、このマシンこそがメジャーなプロフェッショナルドライバーとしての最後を飾るモノになった。 余談ながらこの車はパーツの状態でトミー・アトキンスの元に納品され、それを、長年ブルース・マクラーレンやジャック・ブラバムなどのメカニックを務めたハリー・ピアースが組み上げたもので、シャシーナンバーが付いていない。ただし、エンジンの151-010という番号が、そのままシャシー番号として認知されていて、当時のFIAヒストリック車両識別フォームでも、シャシー番号とエンジン番号の両方が「151-10」であることを示すコピーが残されている。アトキンスの元を出て以降、2人のイギリス人エンスージアストのもとを経て、1980年にロッソビアンコ博物館のピーター・カウスが購入。その後26年間も博物館に展示されていた。現在はマセラティの愛好家の元にあり、グッドウッドリバイバルなどの常連となっている。 文:中村孝仁 写真:T. Etoh
中村 孝仁 (ナカムラタカヒト)