【追悼】写真家・武田花さん。直木賞受賞作家・村松友視さんが語る、武田家との思い出「泰淳さんに百合子さん、そして彼女もいなくなった」
◆両親と距離のある少女 花さんの父親である作家の武田泰淳さんに初めて会ったのは、僕が中央公論社の編集者だった1969年。文芸誌『海』で泰淳さんが「富士」の連載を始めるにあたり、編集担当となったことから、その後、たびたび武田家を訪れるようになりました。 初めて訪ねた頃、花さんは確か高校3年生だったと思います。立教女学院の寄宿舎に入っていたので、年中家にいたわけではないけれど、時々帰ってきていたんでしょうね。 飼われていない猫がすーっと入ってきて、また出ていくような感じで、目立たないお辞儀をして部屋を出ていく。その場の空気にあまり長く身を置きたくない多感な少女なんだな、という雰囲気でした。 武田家を訪れると、玄関の鉄の扉の内側にもうひとつ木の鎧戸のようなドアがあって、外扉を開けると泰淳夫人の百合子さんが、桟の隙間からじーっと見ている。そしてちょっと間を置いてから、「どうぞ……」。 今、それを思い出すと、なんとなく花さんがファインダーを覗いている時もそんな感じがあったのかな、という気がします。 百合子さんはカーッと照る太陽のような人ではあるけれど、猫が物陰からじーっと人を窺っているような一面もある。自分の出自に対して複雑な思いを抱えていただろうし、敗戦直後はかなり大変な思いもしたから、そういう空気感をまとったのかもしれません。 一方、泰淳さんは、戦争中に大陸で日本軍の軍人としての重く痛い経験を背負っていた。作品にもそれが色濃く反映しているし、人柄にもそうした影があります。そんな二人の間に不思議な引力が働いて、一緒になったわけです。 思春期の娘が、そこに馴染むのは難しかったのではないか。寄宿舎に入ったのは両親の意思だったようですが、それがよかったんじゃないかと思います。
そんなわけで、花さんとたまに会っても、ほとんど会話らしい会話を交わさなかったけど、どういう流れだったか、ある時、フォークシンガーの遠藤賢司の「ほんとだよ」という曲が入っているレコードを貸してくれた。 後に『富士』の中に、「ほんとうだよ、ほんとうだよ」と言いつのる人物が出てきたので、遠藤賢司の歌詞から取ったんだなと思った。当時すでに泰淳さんは作家としては大家でしたが、娘からそんな影響を受けたりもしていたんですね。 たぶん、百合子さんの感性からもかなり刺激を受けていたんじゃないでしょうか。 百合子さんは泰淳さんの没後、『富士日記』を上梓し、名随筆家として注目されるようになります。当時、世間の人は、作家である夫の影響で文章が磨かれたとか、さすが作家の奥さんだ、などと言ったものです。 でも、僕はそうは思わなかった。百合子さんがもともと持っていたものが、泰淳さんの死後、花開いたのだと思います。 『富士日記』に登場する「武田山荘」にも、何度かお邪魔しました。富士山が間近に見え、近くに大岡昇平さんの別荘もあったりするんだけど、山荘を建てる時に泰淳さんがこだわったのが、富士山を背にすることだった。 普通、目の前にバーンと富士山が見えるように建てますよね。でも、富士山の側に壁があるんです。これはどこか花さん的でもある――。やはり花さんは、二人のDNAを引き継いでいる気がします。 (構成=篠藤ゆり、撮影=大河内禎)
武田花,村松友視
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