齋藤彰俊の原点「本物の強さを教えられた」9月急逝“虎ハンター”小林邦昭との92年激闘秘話
プロレスリング・ノアの齋藤彰俊(年齢非公表)が17日に名古屋市のドルフィンズアリーナ(愛知県体育館)で引退する。2009年6月13日にリング上で急逝した三沢光晴さん(享年46)の最後の対戦相手となる過酷な運命を背負い続けた男の原点は、今年9月9日に亡くなった“虎ハンター”小林邦昭さん(享年68)との抗争。平成維震軍で同志にもなった小林さんとの1992年の激闘を引退を前に振り返った。 【写真】小林邦昭さん葬儀の祭壇公開 空手家から独立団体でプロレスデビューしていた齋藤に、「誠心会館」で同門だった友人から電話がかかってきた。「プロレス会場の控室で小林邦昭に殴られた。どうしても収まりがつかない。仕返しに行く」 当時、「誠心会館」館長の青柳政司は、獣神サンダーライガーとの異種格闘技戦(90年)が評価され、新日本プロレスに参戦していた。91年12月8日、後楽園ホール。青柳の弟子が控室のドアを閉め忘れた。目の前にいた小林は、扉を開け放したことをわびない態度に憤慨。顔面を殴打したのだ。 「小林さんにやられた彼は、会社員だったので踏み込むことができない状況になったんです。それで『じゃあ、自分が出て行く』と決断しました」 齋藤は92年1月4日、新日本の東京ドーム大会で挑戦状を読み上げた。この行動が認められ、同30日の大田区体育館(現・大田区総合体育館)で「敵討ち」が実現した。 試合は通常のメインイベントを終えた後に行う「番外マッチ」。入場時のテーマソングなし、KO、ギブアップのみでの決着。新日本としては、正式な試合としては認めないというスタンスだった。 「プロレスをやるつもりはありませんでした。恐らく小林さんもそうだったと思います。高校時代にやってたケンカです。そのままいってやれと決意しました」 この異様なシチュエーションにファンは飛びついた。試合は4000人が押し寄せる超満員札止めとなった。 「リングに入った瞬間に一線を越えました。頭にあったことは、一つだけでした。『ひと泡吹かせて敵を討つ』。それだけです」 蹴り、パンチを数えられないほど小林に浴びせた。しかし倒れない。流血に追い込んだ。それでも立ち上がってくる。齋藤も流血した。小林のおびただしい流血にレフェリーが試合を止めた。7分10秒の血闘。齋藤は敵討ちを果たしたのだ。 「小林さんの打たれ強さに脅威を覚えました。自分は思いっきり蹴りも突きも入れました。空手の試合では、全て倒せた技でした。そのすべてを受けて立ち上がってきました。本物のプロレスラーの強さを教えられました」 2月8日、札幌中島体育センターで小原道由を大流血に追い込みKO。同12日には大阪府立臨海スポーツセンターで越中詩郎をヒザ蹴りでKOした。そして迎えた4月30日、両国国技館で小林との再戦が組まれた。超満員札止めとなる1万1500人を動員した。 「子供の頃から大好きだったプロレスにケンカを売ったわけですよね? 自分の名前が大きくなったのはプロレスの敵としてファンが憎悪を覚えた部分でした。プロレスが好きだった分、その反動のように『負けてたまるか』と思って試合に臨んでいました。そのぐらいの覚悟じゃないとあの巨大な新日本プロレスとは戦えませんでした」 すさまじい激闘は、小林のチキンウイングアームロックから逃れられず、レフェリーストップ。 「完全に肩を外されました。ギブアップはしなかったんですが、実際、試合後は動けなくなりました」 あれから32年を経た今年9月9日、小林は68歳で急逝した。告別式で齋藤は、遺族からの願いを受け弔辞を読み上げた。ささげた思いは「感謝でした」と言葉を震わせた。齋藤は小林によってプロレスラーとして覚醒した。だからこその「ありがとうございます」だった。祭壇には、大田区での番外マッチが大きなパネル写真として飾られていた。齋藤だけでなく小林にとっても生涯、忘れられない闘いだった。=敬称略=(福留 崇広)
報知新聞社