「恵那の教育」と我が大地の山、恵那山|筆とまなざし#399
恵那教育会館での作品展示のために恵那山の絵を携えて。
11月29日から12月1日まで恵那教育会館で「会館まつり」が行なわれる。その作品展に恵那山の絵を展示してもらうため、額装した絵を抱えて教育会館を訪れた。玄関へ入るとすぐに畦地梅太郎の大きな版画が出迎えてくれる。所長のNさんの奥さんが山好きなので、きっとここに飾っているに違いない。靴を脱いですぐ左手に、木の板に墨字で「恵那教育研究所」と書かれた看板が掛けられた部屋がある。部屋のなかから聞き覚えのあるNさんの声がした。 「Nさん、こんにちは。絵を持ってきました」。 そう言うとすぐにドアが開き、Nさんが顔を出した。 ここ、恵那の地では「恵那の教育」と呼ばれる教育実践が行なわれていた。1970年~80年代がその最盛期で、教師はもちろん、保護者や地域住民が一丸となって地域に根ざした教育を追求した。その分野では全国的に知られる、草の根的な教育実践である。それは、戦時中に教え子を戦地へ送ってしまった教師たちの皇民化教育へのアンチテーゼでもあった。お上から押し付けられるのではなく、自分たちの手で地域に根ざした教育を模索し、実践していったのである。そのなかで大切にされたのが「生活綴方」である。子どもたちが自分を取り巻く社会を自分の言葉で綴る。文章にすることで自分の思いを客観視することができ、それを学級の仲間と共有し、考えを深める。そのようにして生身の社会を捉え、自分で考えて生きていく術を学んでいこう、というものだった。かつてはこの地域のほとんど全ての教師が「恵那の教育」に関わっていたというが、教育指導要領の押さえつけや学歴のための教科学習が重要視されるなどといった時代の流れのなかで「恵那の教育」は衰退していく。いまでは関心を示す教師はほとんどいないらしい。 ぼくが「恵那の教育」を知ったのは、大学で選択した教職課程の授業がきっかけだった。その授業を担当していた先生が、数少ない「恵那の教育」の研究者のひとりだったのである。自分自身の小学生時代を思い出すと「恵那の教育」に繋がるかすかな面影が見え隠れし、そこに自分にとってなにか根源的なものが秘められているような気がした。「恵那の教育」とはなんなのか。それは自分にとってどんな意味を持つのか。そして、そこに含まれるエッセンスのなかに、これからの社会において大切ななにかがあるのではないか……。卒業以来、心の片隅に潜んでいた、そんな思いが沸々と湧き上がってきた。実践されていた先生方から話を伺い、自分なりに「恵那の教育」について考えるようになった。話を伺った元教師のひとりがNさんなのだが、じつはNさんの奥さんはぼくのクライミング講習の常連さんで、これもなんだか不思議なめぐり合わせだなと思わずにいられない。 さて、恵那教育研究所はいわば「恵那の教育」の心臓ともいえる場所で、貴重な資料が保管されている。毎年「恵那の教師の作品展」とされてきたが、今年から「教師」という枠が外されてだれの作品でも展示できるようになったため、ぼくの絵も展示させていただくことになったのである。 Nさんに絵を預けて会館を出ると無性に恵那山の絵を描きたくなった。スケッチブックを持って山へ向かう。故郷のことを思うとき、描きたくなるのは決まって恵那山である。最近ボルダー開拓に入っている場所からは裾野を広げた恵那山が一望できる。クライミングを楽しんだ夕方、この場所から暮れなずむ恵那山を眺めるとき、なんともいえない充実感に包まれる。それはきっと、恵那山が我が大地の山であり、この土地に包まれていると感じるからなのだろう。
PEAKS編集部