阪神・淡路大震災で被災した人たちを癒し、「復興のシンボル」に…パンダの「タンタン」の、波乱に満ちた生涯
来日のきっかけは阪神・淡路大震災
1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発生。6434人が犠牲となった。未明に襲った大地震は、神戸の街を一変させ、人々から笑顔を奪った。神戸市は傷ついた市民を励ますためにもパンダの共同研究をすすめたいと中国に呼びかけ、地震から5年後となる2000年、タンタンと雄のコウコウのペアの来日が実現した。 当時はまだ復興なかばだったこともあり、税金でパンダを招へいすることに反対する意見もあったが、いざ来日が決まると神戸の町は大いに盛り上がった。車体にパンダがデザインされたバスが走り、パンダをモチーフにしたケーキやパンが売り切れ、パンダ音頭という盆踊りまで作られた。 市民の盛り上がりに対し、受け入れる王子動物園スタッフの顔には緊張の色が浮かんでいた。飼育員にとっても獣医師にとってもパンダを飼育するのは初めて。神戸市民だけでなく全国の人たちが注目するなか失敗は許されない。 だが、飼育を任された兼光(かねみつ)秀泰(ひでやす)は不安と同時に、絶対に二頭を子どもたちに披露するという思いを抱いていた。地震発生後、兼光はいつか動物園の動物たちが傷ついた人たちを癒すことに役立つ日がくることを信じ、飼育に打ち込んできたのだ。 来日から2週間後となる7月28日。タンタンとコウコウの一般公開が始まると王子動物園にはかつてないほどの観客が詰めかけた。パンダ舎には歓声が響き、子どもたちの顔に満面の笑顔が花開いた。被災した子どもたちを癒したいという兼光の願いは実現した。タンタンとコウコウは震災で失われた笑顔と街の賑わいを取り戻し、「復興のシンボル」と呼ばれるようになる。
タンタンを襲った悲劇
王子動物園にはもう一つ、取り組まなくてはならないミッションがあった。それは繁殖。野生下におけるパンダの生息数は、森林破壊などの影響で1980年代には1100頭程にまで減少していた。中国政府が野生のパンダ保護に力をいれたこともあり、最新の調査では1800頭あまりまで増えたものの、依然として絶滅の危機を脱したとは言えない。そこで世界の動物園で進められているのが、繁殖を通じて頭数を増やす「種の保存」の取り組みだ。 タンタンとコウコウも繁殖に向けた試みが続けられたが、あいにく2頭は相性が悪く、なかなか交尾には至らなかった。そこで王子動物園では自然繁殖をあきらめ人工繁殖に切り替えたところ、2008年8月26日、待望の赤ちゃんパンダが誕生した。 体長は約20cm、体重わずか100gほど。トレードマークの白と黒の毛は生えておらず、ピンク色の薄くてやわらかい皮膚に包まれている。まぶたを閉じているため視力はなく、自力で歩くこともできない。ピィーピィーと大きな声で鳴く赤ちゃんをタンタンは優しく抱き上げると、自分のお腹に乗せた。 「タンタンがお母さんになったぞ!」 誕生を喜ぶ兼光ら歓喜の輪の中に、この年の4月からパンダチームに加わった若き飼育員の姿があった。梅元(うめもと)良次(りょうじ)、当時26歳。中学校を卒業し、定時制高校に通いながら15歳で飼育員になった叩き上げで、観察眼を買われパンダチームに抜擢された。梅元が何よりも驚いたのは、赤ちゃんパンダがあげる鳴き声の大きさだった。手のひらにのせられるほど小さいのに、鳴き声はパンダ舎全体に響き渡るほど大きかった。