寝袋の中で「今夜いよいよ死ぬかも」 ますます激しくなるガザの空爆に日本人医師の覚悟と葛藤
(宿舎に)到着してすぐ子どもたちが迎えてくれて「ユーココール」がまた起きた。病院に寄付されて、貰ったお昼ご飯パック(飛行機の機内食のようなもの)を食べずに持ち帰り、いつも仲良くしている子どもたちのお家にあげてきて、クリニックで日本のメディアからの長めの取材を受けた。取材中、子どもたちが横からちょっかいを出してきててかわいかった。取材でインタビューに答えているとき、突然わけがわからないところで涙があふれてきたりした。一緒に座っている子どもたちに不思議がられた。自分でも初めての経験で不思議だった。 帰って、3日浴びてなかった水シャワーを急いで浴びて、夕方、チームでブリーフィングした。明後日あたりに海岸沿いの建物に引っ越しするらしい。この辺の地域も危なくなってきたからと。ここで仲良くなった子どもたちやその家族が気になった。 (略) 今日は結構近くで爆音があるので、みんな、エジプトから持参してきたヨガマットで窓を補強したり窓の近くを避けて廊下で寝たりしている。 今夜死にませんように。 今、空爆が連続ですごくあって、同部屋のチームメイトが窓を避けるべく居間の中央に移動した。 私はちょっと移動しても変わらないと思い、そのままのところに残った。 ----- 停戦明けでイスラエル軍による爆撃が再び始まったが、停戦前以上に激しかった。 日記にも「今夜死にませんように」などの記述が残っていた。その翌日も同じような状況で、「明日の朝まで生きてますように」との言葉で締められている。 ----- 《12月2日の日記から》 昨夜は空爆ひどかった。特に朝5時ごろから。いよいよ死ぬかもと思ってじっと待っていた。どこも行くとこないし、中途半端には生き残りたくない。空爆が続いた後、ニワトリも相変わらず鳴いていてちょっとウケた。朝は子どもたちとの時間はなかった。ER行ったら蘇生室が結構空いてた。 (略) ERにまた行ったら、mass casualty来てた。ホントひどい。 いよいよハンユニスも空爆されまくり始めて、チームは病院から急いで帰ることになった。帰ろうとしたらドライバーさんがいない。いろいろ電話してやっと連絡が取れた。昨日あまり眠れなかったから眠い。 (略) 眠いので寝る。明日の朝まで生きてますように。 ------