【名馬列伝】ライアン、マックイーンの同牧場同期に劣らぬ個性派メジロパーマー。障害入り試みるも、訪れた“相思相愛”ジョッキーと運命の出会い<前編>
平地で勝てず、一時は本気で考えた”障害転向プラン”
メジロパーマーは晩成の典型だった。1989年8月の函館でデビューし、3戦目で初勝利を挙げ、続くオープンのコスモス賞を辛勝するが、10月と11月のオープン特別を連敗し、そのあと左後肢の骨折が判明して半年以上の長期休養に入った。 復帰は春のクラシックが終わった6月。札幌の1500万下(現3勝クラス)、エルムステークスを大敗すると、その後も中団からズルズルと後退したり、逃げても早々とバテてしまうといった精彩を欠く走りを続け、連敗は1991年6月のニセコ特別(500万下)に至るまで「11」を数えた。 それでも、上昇のきっかけがなかったわけではない。91年の春からはレースでの「逃げ」を徹底してから1500万下特別を3着、オープン特別を4着と健闘。まだ1500万下の身ながらオープンや重賞にたびたび格上挑戦して強い相手に揉まれた効果もあってか、徐々に粘りが増してきたのだ。 そして、同年の北海道シリーズでその効果が明らかになる。自己条件のニセコ特別を逃げ粘って2着とした後、同条件の十勝岳特別の逃げ切りで、実に1年9か月ぶりの勝利を挙げた。そして、その余勢を駆って臨んだ札幌記念(GⅢ)でハンデ51キロという斤量の軽さも好感して4番人気に推されると、スタートで出遅れながら第2コーナーで先頭を奪い単騎逃げの形に持ち込んだ。そして、直線で激しく追い込むモガミチャンピオン、カミノクレッセというGⅠレースの常連を抑えてゴール。5歳の夏にして初の重賞制覇を成し遂げたのである。 しかし、これで完全にブレイクしたわけではなかった。メジロパーマーはそれから転戦した函館で出遅れるなどして2連敗。続く京都大賞典(GⅡ)でも逃げバテて大差の最下位に敗れてしまう。ここで持ち上がったのが、障害転向のプランである。 ただし、このプランはこのとき初めて持ち出されたものではない。実は3歳夏の北海道シリーズでの不甲斐ない負け方を見た調教師の大久保正陽は、調教の一環として障害を取り入れることにした。そしてハードルを飛ばせてみたところ、飛越は上々であり、走りも平地では図抜けたものがあったため、一度は障害入りを決断しようとした。 結局、上半期を終えての降級で500万下(現1勝クラス)にも出走できることになったため、そのプランはいったん見送られていたのである。 ところが今回は、本当に動いた。障害試験を受けたメジロパーマーはレコードタイムで合格し、大久保の見立て通りであることを示すと、デビューの未勝利戦では2着に6馬身差で圧勝した。ところが2戦目の400万下(現1勝クラス)戦は2着に敗れるのだが、大久保が気にしたのはこの際の飛越が低かったこと。このまま障害を走らせ続けると事故につながりかねない。そう考えた大久保は、再びメジロパーマーを平地へ戻すことにした。