都市論、建築論的に解釈する「鎌倉殿の13人」
「東家」の建築的美意識
建築学科の学生だったころ、大邸宅の図面(配置図)に「東家」というものが登場し、読み方も分からずにいた記憶がある。これは「あずまや」と読み、田舎風の草庵をさし、ひと昔前の大邸宅の庭園にはよくつくられたのだ。 この「あずま」という呼び方に当たる「西」の呼び方はないようだ。なぜ「東」だけに「あずま」という呼称があるのか。もとは、神話上の人物ヤマトタケルが東征を続ける中、荒れる海を静めるために身を投げた妻を想って「吾が妻」と叫んだことによるという。天孫降臨や神武東征の神話や、卑弥呼の北九州説と大和説の併存や、出雲王権や大宰府の存在など、日本列島の都市化の軸は北九州から近畿地方への線であって、逆に近畿より「東」は、常に都市化から外れた「化外の地(文明の権力や法律の届かない地域に対する中国的な表現)」であった。 「東家」とは、そういった反都市の空気をおびた草庵の意味である。それは万葉以来の都人(みやこびと)がもったひとつの建築的美意識で、平安時代には「もののあはれ」を、中世には無常観を、近世には「侘び寂び」を象徴する空間であった。千利休がことさらに小さな草庵茶室と露地にこだわったのもそういった歴史的文脈の上にのっている(拙著『「家」と「やど」―建築からの文化論』朝日新聞社1995年刊)。 都の人たちは「東」を化外の地と蔑みながらも、都にはない草の庵を風流とした。文化とはそういう、ある種矛盾した性質があるのだ。
「一所懸命」は日本の中核をなす思想
都でもなく大都市でもない、化外の地たる鎌倉の時代は、その意味で特異な時代であり、北条氏がこだわった「執権」という言葉すなわち天皇でも王でも関白でも将軍でもない立場にもそのことが表れている。 政庁が関東に移ったという点では江戸時代と同様だが、都市論的には大いに異なっている。徳川家康は、京都盆地以上に広がりのある関東平野と、関東ロームに生える大木(都市建築の材料)と、江戸湾を中心とする水運の可能性に惚れ込んだのだ。そして街道を整備し、参勤交代という制度によって、江戸を京都や大阪を凌ぐ大都市にするという構想を早くから抱いていた。 その意味で鎌倉時代は、全国武家連合の要としての「幕府時代」と呼んでもおかしくない。堕落した貴族たちが荘園を人任せにした特権階級の時代が終わり、現場主義、実力主義の時代がやってきたのだ。この自分の所領を命がけで守るという「一所懸命」こそ、律令制度に代わる武家の倫理観念であり、日本史の中核をなす武家の時代の思想的骨格であり、今も生きている強力な思念である。実際日本人は、サラリーマンも、役人も、農民も、職人も、商人も、ひとつの所(仕事)に命をかけて(魂を込めて)仕事をしているのだ。これを「一生懸命」と書くのはあまり好きになれない。