子育て卒業間近の”空の巣症候群”を救った価格98万円の温泉付きマンション。伊豆で二拠点生活をはじめたら家族との時間も充実した! 小説家・高殿円
物件選びは自問自答の連続 自分の欲と向き合うセラピー
ここまで、自分だけの秘密基地を探す旅は、この歳になって改めてひとつひとつ自分を知るいい機会だった。なぜならなにが自分のためになるか、自分の幸せをはっきり言語化できなくては自分自身に投資もできない。時間は限られていて、優先度をはっきりとつけられることが人生にとって重要なスキルであることはいうまでもないから、私は常になにが自分にとって幸せなのかをただただ問いただし、優先順位をはっきりつけるようにしていた。 旅と知らない土地での暮らしは、まさにお風呂で日々の汚れを落とすように私自身をブラッシュアップしてくれた。私は現在睡眠障害があり、運動不足。必要なのは太陽の光を浴びて暮らせるアクセスのいい場所。引きこもりが好きだから通販でなんでも買えてネットスーパーが配達に来てくれることはマストであり、なければ徒歩圏に最低2つ以上の生鮮食品を売っている場所があること。水がおいしいこと。海!そして女の一人暮らしに不安がない場所であること。 私は結局伊豆に98万円で温泉のでる築75年の小さな部屋を買ったのだけれど、毎朝太平洋から昇る朝日に強制的に起こされ、水道の蛇口をひねれば箱根の伏流水が出て、朝顔を洗うのも部屋の温泉という生活をしている。
私が秘密基地を持ったことで、家族がそれぞれ自立し、一緒の時間を大切に過ごすようになった
私が頻繁に家をあけていて、家庭に影響が出ないか心配をしたが、我が家の場合は杞憂であった。もともと食事は息子が塾に通い始めてからセルフサービスになっており、家事代行をうまく利用することで、私自身ほぼ料理から解放されていた。 我が家のメンズはそれぞれ独立した生活を営んでおり、家族のトークルームや週に一度の進捗会議によって問題なく、いやむしろ私がそのような2拠点生活を始めてからのほうが共同体としてのチームワークが円滑になった。私が帰宅することがひとつのイベントになることによって、家族がそろった週末に近場でランチにいくことが楽しみになった。 子育ても家事もない小さな部屋で暮らし始めたら、自分でもびっくりするぐらい生活が変わった。まず一日が長いし、ちょっと仕事で嫌なことがあった時も「温泉はいるか」「海見ながらワイン飲むか」と切り替えができる。 伊豆の秘密基地で温泉につかったり海をぼーっと見ていると、不思議なくらいいろんなことがどうでもよくなってメンタルに効く。そんな私の秘密基地を息子は気に入っていて、休みのたびに青春十八きっぷで7時間かけてやってくるようになった。 パートナーのほうはおいしい魚介にめろめろになってしまい、田舎暮らしなんてとんでもないと言い張る田舎出身者だったのが、「こういう暮らしもあり」とまでころりと宗旨替えした。理由は海と水その日の朝とれた魚である。人間は口にするものを変えるだけでこんなにも意識が切り替わるのだと実感した。 あと2年もしないうちに息子は巣立っていくだろう。彼が飛び立つ巣は、アラフォーの私にとってもまた巣であったのだ。巣は小さくても大きくてもよい。 今、私は私一人をとにかく癒やす小さな巣を手に入れた。そこへたくさんの友人たちを迎え入れ、空の巣なんてとんでもない、かえってにぎわいの巣症候群におちいりつつある。みんな私の温泉、すてきでしょ? と自慢しながらつつく金目鯛のしゃぶしゃぶは最高だ。今度の巣で、私は私を育て、もっと自分を知ることで癒やすのだ。 <書いた人:高殿円(たかどのまどか)> 小説家。漫画の原作や脚本なども担う。2000年、『マグダミリア 三つの星』で第4回角川学園小説大賞奨励賞を受賞。2013年、『カミングアウト』で第1回エキナカ書店大賞を受賞。2024年4月には同人誌『98万円で温泉の出る築75年の家を買った』を刊行し、話題に。 <編集 小沢あや(ピース株式会社)>
小沢あや