自分の精神を救済できるのは自分しかいない――福山雅治が振り返る30年、そして原体験としての「家族」
デビュー30周年を迎えた福山雅治は、その歩みについて「気持ちはずっと不安定でしたよ」と振り返る。ミュージシャン志望だったが、俳優としてデビューするとアイドル的な人気を得てしまったこともコンプレックスだったとも語る。それでもプロとして生きることを選んだ背景には、長崎の両親が望んだ「就職」という選択肢を捨てた過去があった。(取材・文:水田静子/撮影:吉場正和/Yahoo!ニュース 特集編集部)
ポジティブなだけの音楽として消費されたくなかった
これまで取材を受けても、しっかりと父親の話をすることはなかった。 「なぜかというと父との別離をきちんと作品にしたかったから。自分の苦しかったことや、今、現在のつらいことも含めて、誰かに話してしまうと気持ちが楽になってしまうというところがある。精神的に楽になると、その感情を作品として作るときに濃度と純度がへたる気がするんです。それにそもそも感情をオープンにできる人間だったら、おそらく詞を書くという作業はしないはず。僕はどちらかというと(心が)開かないほう。胸の奥にある思いを日常で言葉にしないからこそ、詞を書き、曲を書き、ステージを用意してもらって、初めてオーディエンスに告白できる」
今月、発売とされたデビュー30周年のアルバムは、そんな福山にとってとりわけ意味深い作品となった。タイトルの『AKIRA』とは、福山が17歳のときにがんで闘病の末、この世を去った父親の名前である。 福山の父親は、病気が見つかってから、約1年の闘病ののちにこの世を去った。 「入院中は、母親が付き添って、病室に泊まり込んで看ていました。朝帰ってきて、兄貴と僕のご飯を作って、働きに出かけて、夕方またご飯を作りに帰ってきて、夜は父の病室に泊まって」 家の中が、ざわざわとせわしなかった。 「手術を繰り返しても父の病状はよくならないし、母親はどんどん疲弊していく。なのに、自分ができることは何もなくて、無力感に苛まれていました。やらなければならないことは、真面目に学校へ行って勉強をすることだったんでしょうけど、現実を受け止めきれなかったんでしょうね。校則で禁止されていたバイクの免許を取得して、それが学校にバレて謹慎処分になり、母親が学校へ呼び出されたり……(苦笑)。今思うと、はっきり言って親不孝者でしたね」