自分の精神を救済できるのは自分しかいない――福山雅治が振り返る30年、そして原体験としての「家族」
その行き場のない思いを支えていたのは、1本のギターだった。 「音楽が純粋に好きで、傍らにギターがあったことで救われていたと思います。仲間とバンドをやっていることで気持ちを保っていられた。……父親は麻雀打ちだったんですよ。それに酒好きで、夜もあまり家にも帰ってこなかった。だからこそ、せめて息子たちはちゃんと学校を卒業して、就職してほしかったんでしょうね」 「葬式の日に、父の麻雀仲間のなかでも、いかついタイプの人が麻雀の牌を持ってきた。泣きながら棺桶に役満の九連宝燈を並べながら『アキラさん、この役満だけはアガれんやったね』と、さめざめと泣いてくれたんです。それを見て、ろくでなしだと思っていたけど、父親の人生はいい人生だったんだなって。良い友達がいる良い人生だったんだなって」 そんな父への思いを、なぜ今、初めて曲にしたのだろう。 「まず僕の年齢が父親の他界した年齢に近づいてきたことで、もうここで書いておかなければと思ったんです。夏休みの最終日まで溜め込んでいた宿題をやる感じじゃないですけど、今がひとつの締め切りの期日だと思ったんです。実は、音楽デビュー当初から父との別離は作品として描きたいと思っていました。自分自身に起こった苦しみは、やっぱり自分にしか作品として描けない。どれほど優れた作詞家さんに気持ちを伝えて書いてもらっても、それは恐らくニュアンスの違うものになってしまう。そして、この自分にしかわからない苦しみ……苦しみって言っても、父自身と(闘病を支えていた)母の方が僕よりもつらかったんですけどね。僕は過酷な現実から逃げるように暮らしていただけですから。でも、あのときの自分の精神状態を救済できるのは、結局、自分しかいないと思ったし、その救済の手段は音楽しかなかった……」 「この30周年を機に、自分のソングライティングの背骨、ソングライティングの動機がどこにあるのかということを明確にしておきたいと思った。苦しかった17歳のころの思いや、そこで刻まれた自分の『死生観』といったものをちゃんと描いておかないと、これまで書いてきた作品たちが、ポジティブさだけを描いた音楽として消費されていってしまうのではないか。そんな危機感さえ感じるときがありました。ソングライティングの核として、僕自身の『死生観』を書き留めておく必要性をずっと感じていたんです」