自分の精神を救済できるのは自分しかいない――福山雅治が振り返る30年、そして原体験としての「家族」
アイドル要素は与えられた「役目」
「社会人として、せめて高校を卒業して就職してほしい、ということが両親の願いでした。その願いも僕なりに理解していたので、地元の会社に一度は就職しました。だけど、5カ月で辞めてしまって長崎を後にした。両親の安心材料であった就職。だけど、まだ18歳だった僕は、やっぱり自分の人生は自分のものだ、という思いで両親の願いを振り切って上京した。親の気持ちを反故(ほご)にした人間としては、どういう形であれ何としてでも絶対に売れなくちゃならない、そういう強い気持ちはずっと持ち続けていました」 中学時代から始めていたバンド活動。本人は「ギタリストになりたい」と望んでいた。「甘い考えで、音楽をやるチャンスもつかめるかもしれない」と、現所属事務所の俳優オーディションを受けたが、誤算が生じた。俳優としての仕事を始めると、生まれ持った恵まれた容姿から女性たちがざわめき始め、「本当にやりたかった」ことよりも想定外の人気が先行していった。 「自分が目指していたものとズレてしまったんです。もともとは九州のロックバンド、ARBやTHE MODS、ギタリストなら鮎川誠さん。洋楽ならセックス・ピストルズやクラッシュとか、そういうパンクやロックのミュージシャンに憧れてバンドを組んでいたので。いざデビューはできたものの、なりたかった自分と、事務所が考えてくれた『ここが福山の武器』というところがすれ違っていた。今思えば新人の僕に対してさまざまなプランを提案してくれていたことはすごくありがたいことでしたけど、自分の中では、『何もかもが違う』と苛立って早く補正していきたいという気持ちでした」 だがあるとき、ふと気づく。 「『ここを聴いてほしい、見てほしいんだけど』と胸を張って言えるほど、自分のパフォーマンスや表現を確立しているのかって、自分に問いかけたんです。そしたら『全然できてないんじゃない?』 と心の答えが返ってきた。それは事実だったし、実際に自信もなかった」