「菅政権」のコロナ対策――よみがえる田中派の血脈
コロナに対する2種類のオピニオン
新型コロナウイルスに対する国民のオピニオン(意見)には二つの流れがあった。 一つ目は、専門家を中心に形成されたものである。疫学あるいは臨床の専門家はその経験と知識から早期に抑え込むことの重要さを知悉しており、検査をする(これは人によるが)、水際で止める、隔離する、医療体制を整えることなどを主張してきた。そしてロックダウンとはいわないまでも、強い外出制限をしてクラスターを追いながら、接触の量を減らす策を、専門家会議として提案した。これは第一波(3~5月)において、ある程度効を奏したといえよう。本欄でも「時間を止めろ」「接触の量と質を考えろ」などと意見を書いた。 二つ目は、政治家を中心に形成されたものである。現代日本の政治家は、突然直面したこの疫病に対して、国として有効な手を打てないことを知り愕然としたであろう。水際対策も、検査も、隔離も思うように進まない。そして法令が不十分、行政システムが危機に対応できない、各省庁をまとめてリーダーシップを取る人物がいない、といった現実が露呈した。その言い訳的なものもあってか「恐れすぎることはない」「むしろ経済対策が重要だ」というオピニオンが形成される。 この二つの考え方のあいだに立って、鋭敏に現実的に対応したのが、各自治体の首長たちであったろうか。
第3のオピニオン
しかし菅官房長官の話を聞いていると、その人柄もあって、三つ目のオピニオンが見えてくるような気がするのだ。 「観光業の疲弊は死活問題」という説得の仕方に、感染への対策を取りながら、特定の業界にいる人を活かしていくという道筋が見えてくる。感染対策と経済活動のバランスを取るというのではなく、観光業や外食業に携わる人たちの生活の現実が感じられ、インタビュアーもなんとなく納得してしまう。 そこには二つの前提がある。一つは、ソーシャルディスタンスを守り、透明板などで人を隔て、換気と消毒につとめ、マスクをして大声を出さない、といった対策をとっていれば、人間の接触があっても感染を防げるという前提であり、もう一つは、感染者数が増えても重症者数が少なければいいという前提である。第一波では接触総量を減らすことが目標であったが、今回は同じ接触でも「対策した接触は可」であり、感染しても病気になっても 「重症化しなければいい」ということである。 第1のオピニオンは科学的である。第2のオピニオンは政治的である。そして第3のオピニオンは、明らかに政治判断を優先しているのだが、これまでの経験から来る専門家の判断を頼りにして、つまり半政治的半科学的である。 微妙な違いだが、感染防止と経済振興のバランスではなく、感染による犠牲と経済を停滞させることによる犠牲のバランスという感覚だろうか。直接届く国民の声を無視しない点では政治的であり、「対策した接触は可」「重症化しなければいい」という前提を真実とすれば科学的なのだ。 もちろんこれがうまくいくかどうかは別問題である。この論考の趣旨は、政権の批判でも擁護でもない。コロナ禍に現れる日本政治の属性というようなものだ。国会を開いて法改正をしろという意見もあるが、もはやわれわれは、この国の政策実行の遅さと矛盾を飲み込まざるをえないのではないか。結局、国民は自衛するほかないのである。今度こそ「民度」が試されているというべきだ。