国民が愚かになっていくとき…「タテ社会の論理」への過剰な依存がもたらす「深刻な事態」
10月26日に衆議院選挙が行われ、与党であった自民党と公明党が大きく議席を減らした。議席数を増やしたのが立憲民主党と国民民主党、れいわ新選組だった。日本維新の会と共産党は議席数を減らした。 【写真】いまさら聞けない日本経済「10の大変化」の全貌… この中で、まず自民党と国民民主党に注目した。この二つの政党が出すメッセージからは、主体的に状況を構成していこうという意志が感じられる場面があったからだ。 石破首相が誕生した時には、その安全保障についての見識や原理原則を重んじてきた姿勢に期待を寄せた。しかし、統一教会とのつながりが疑われる勢力との対決姿勢を示し、強力な反発を受ける党内政治の中で妥協を強いられたようだ。その妥協的な姿勢を、国民は厳しく判断し、拒絶の意志を示した。国民民主党は、野党の立場から、与党を批判するだけではなく、自ら政治の状況を作る提案を行い実行できるポジションを狙い、若者を中心に一定の評価を得た。 しかし、この二つの政党についての評価は、もう少し様子を見て決めたいと考えた。 一方で立憲民主党、れいわ新選組、日本維新の会、共産党については、強いメッセージを彼らが出していたとしても、それらはすでに形づくられた状況への批判か同調が中心で、自らが責任を持って状況を構成していくという意志が乏しいという印象が変わっていない。立憲民主党は60代以上の人々の支持者が多いという。高齢者、つまり社会の中で一定の権益を確保している人が多いと思われる層が、強く与党を批判する政党を支持している状況は、日本のねじれている状況を読み解く一つのカギである。 私は「日本的ナルシシズム」という言葉で日本社会が示してきた傾向を論じてきたが、今回の選挙ではそれが良い意味で変化していることを感じた。同時に、古いものが機能しなくなっているが、新しい形もまだ生まれていない、その危うさも感じている。 「日本的ナルシシズム」の精神性が示す特徴の一つである「タテ社会の論理への過剰な依存」が、通用しなくなっている。これは歓迎すべきことだ。それでは、「タテ社会の論理への過剰な依存」とはどのような事態だろうか。 たとえば、選挙が行われていた一方で、元大阪地検検事正の北川健太郎氏が、部下であった女性に性的暴行を行い、準強制性交罪で起訴されている。その初公判で本人が起訴事実を認めたことが報じられた。伝えられている所によると、北川氏は仕事において有能で、職務上の正義感を発揮して周囲から評価され愛される人物だったらしい。そのような人物でも、身内の、タテ社会の自分より下位とみなされる人物に対しては、犯罪とみなされる行為を行っても許容されると考えてしまう、それがタテ社会の論理への過剰な依存である。 このような「タテ社会の論理への過剰依存」が許容される社会では、当然、タテ社会の上位であることの利得が大きい。場合によっては、個人の理想や都合を、「組織の理想や都合である」と主張して、自分の身近なタテ社会の下位の者に押し付けることが可能だからだ。そしてそこから得た利得を生かして、そのようなタテ社会への依存がさらに許容される状況が維持・強化されることを望むだろう。 長年与党の立場にあった自民党については、そのような「タテ社会の論理への過剰依存」を維持温存し、それを強化しようとする傾向性が根付いているのではないかという不信感が、国民から向けられている。このような疑念を自民党関係者が払拭していくことは容易なことではないだろう。しかし国民からの信頼を回復するためには、避けられない作業だ。