錦糸町の大人気「コの字酒場」の店主が紆余曲折しながら身につけた"攻めの姿勢"。「ラストオーダーこそ力を入れるんです」。
■「2回肝臓やられてました」 給料に惹かれて入社した鴨川グランドホテルで、工藤さんは最初に都内にあるタイ料理店に配属になった。これが工藤さんの飲食業界でのスタートになった。 「なんでタイ料理なのかなあ、なんて思いつつも、あってたんでしょうね、仕事がおもしろくなっちゃって」 それからずっと飲食畑を歩んだ工藤さんだが、なんと21歳で店長になってしまった。破竹の勢いだったのだ。 <工藤さんの行きつけ「平井魚政」は正統派の鰻屋だ。ただ、鰻以外の料理もすこぶる旨い。3種の前菜を持った一皿に、お造りに煮物。これが、もう酒を進ませる逸品揃い。蓮根の和え物はシャキシャキの歯触りと蓮根のやさしい甘みとがクセになる。香草をしのばせた卵焼きの爽快な香りとねっちりした歯触りもたまらない。刺身は流石の目利きと唸らせるし、煮物は出汁のふくませ加減が至妙。旨い店「井のなか」の肴もちょっと彷彿させる> 出世街道を駆け上がっていた工藤さんだったが、出る杭は打たれるのが日本社会なのであった。新たな配属先のイタリアンではいろいろと人間関係に悩まされた。 「居酒屋部門ができるという話があって、今度はそこかな、と思っていたら、なぜかイタリアンに配属になって。そこに前からいた人たちからしたら僕はよそ者なんですよね。ほどなくして、なんていうんでしょうね、僕派とそうじゃない派、みたいなことになっちゃったんですね。外部から来たコンサル役の人は僕じゃない派で、「お前なんか最低だ」なんて言われる始末で。たしかに、勢いづいていたけれど、ちゃんと売り上げは上げましたしね。ただ、まあ、人に働いてもらう上での気遣いみたいなところは、まあ、若かったですね」 自戒をこめつつふりかえる工藤さん。今の彼の持つ雰囲気からは想像がつかないが、当時は世の中全体がイケイケだった、なにしろセンター街にチーマーがあふれていた時代である。そんなこともあったのかもしれない。ちなみに、当時は150坪の店で年間3億の売り上げを出していたという。辣腕だ。 そんな工藤さんを周りが放っておくわけもなく、同じ会社から独立するという上司に誘われた。そして転職。今度は六本木にある店だった。 「そこでも最初は大変でした。お通しに大根の葉っぱしか出さないような店だったんですが、僕は和食のちゃんとした料理で日本酒が呑める、そういう店を目指したんですね」 すでにその頃には「日本酒好きを自覚していた」という工藤さん、当時隆盛を誇っていた日本酒の店にも足繁く通った。ちなみに、 「酒の勉強をしているうちに気づいたら2回、肝臓やられてました」 という。回復してくれて本当によかった。熱中すると脇目もふらずに邁進するタイプなのだ。 そんな猪突猛進の工藤さんだけに、新たに任された店も順調に伸びていった。そして、サラリーマンとして最後に任された店が茅場町にあった居酒屋だった。100人規模の大きな店ながら、銘柄ごとに燗独鈷(持ち運びできる燗酒用の器具)できちんと燗をつけるということで、日本酒好きには知られた店だった。そこで多くの日本酒好きと知り合った工藤さんだったが、また組織の人事上のあれこれがあって、その店を辞めた。2004年のことだった。 <最初の三品ですっかり食い気の塊になったところで、白焼きが登場する。「平井魚政」の白焼きは、鰻の脂っけが実にいい具合に残しながら仕上げてある。ふわふわあっさりとしているようで、口中でじわりと鰻のコクたっぷりの脂を感じる。こんな白焼きそうそうお目にかかれるものではない>
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