高性能化はある意味“自殺”? スポーツカーとは何かを考える
2015年のスポーツカーシーンでは、マツダ「ロードスター」をはじめ、ホンダ「S660」などの注目モデルが発売されました。2016年春にはホンダ新型NSXも生産が始まるといわれています。さまざまな個性を持つスポーツカーが進化を重ね、登場していますが、そもそもスポーツカーの究極の定義とは何で、スポーツカーはどうあるべきなのでしょうか。モータージャーナリストの池田直渡氏が考察します。 スポーツカーの「失われた10年」 ポスト・エコカーで復活なるか
スポーツカーの3つの「派閥」
「スポーツカーとは何か?」という議論に終わりはない。クルマ好きにとって定番であり、譲れないテーマなので、議論はいつも紛糾し、平行線になる。 それは「スポーツカーとは何か?」という議論がそのまま「何がスポーツカーではないか」という排他的な構造を持っているからで、意見が一致しないことはすなわち自らの信じるスポーツカーを否定されることになるからである。 この議論には大体3つの派閥がある。一番、原理主義なのが「専用設計シャシー派」だ。その論旨は概ねこういうことだ。「スポーツカーは走ることに対して純粋に設計されているべきで、そのためにはエンジン搭載位置やホイールベースなどの自動車設計の根幹部分に妥協があってはならない」。だからシャシーは専用設計でなくてはならず、それ以外はスポーツカーではない。代表的なクルマはマツダ・ロードスターやロータス、MGなどのライトウェイトスポーツが大半を占める。ここに該当するはずのレクサスLFAやフェラーリ、ランボルギーニなどを推す人は何故かあまりいない。 性能主義の人もいる。スポーツカーは高性能でなくてはならない。そのためには高出力の過給ユニットと、それを余すことなく路面に伝える電子制御の四輪駆動システムが必要だ。このジャンルに入るクルマはレースやラリーなどでも実績のあるクルマが多く、それもこの説の拠り所になる。日産GT-Rや三菱ランサー・エボリューション、スバルWRXなどがこれらの代表だ。 一番の穏健派は、「クルマを操ることこそがスポーツ」という人々だ。もちろん操ることそのものに快感を得られないクルマも存在するので、厳密に言えば何でも良いわけではないだろうが、この種の人々はハードウェアそのものにはあまり重きを置かない。ドライバーとクルマの対話がちゃんと成立すれば、設計がどうのとか、性能がどうのとか言わない人々だ。代表的なクルマを挙げるとしたら軽トラになるだろう。 筆者は原則的に三番目に同意するが、一番目については好意的に受け止められる。二番目の高性能主義はどうも違和感が大きいのだ。お叱りはコメント欄で存分にお願いしたい。