高性能化はある意味“自殺”? スポーツカーとは何かを考える
「モラル」と「楽しみ」のバランス
クルマは人がより速く安全に移動するために作られた道具なので、安全である限り速度の高さそのものを目の敵にする必要はないが、それでもどこかにラインは引かなくてはならない。その基本として法律がある。現実の交通の流れは必ずしも法律通りにはなっていないのも事実だが、それでも多くの人は速度違反をどこまでもするわけではない。そういう人たちのモラルに合う速度でハンドリングが楽しめるスポーツカーはもっと増えるべきだと思う。 先日機会があってダイハツのコペンで山道を走った。FFのパワートレインを使うあたりで、いわゆる世間のスポーツカー好きは多くを期待しないかもしれないが、その走りは、少なくとも楽しさにおいてスーパーセブンに引けを取るものではなかった。自由に荷重を呼んで、ラインを変えることができるもので、かつ挙動の変化も穏やかな仕上がりに筆者はとても満足した。 クルマは社会と共に変わって行く。スポーツカーもまた例外ではない。1990年代以降のスポーツカーはその性能から見ても、普通のドライバーがそう簡単に楽しめるものでなくなりつつあった。技術の進歩によって性能が上がり、それが速度レンジをどんどん押し上げていったのだ。筆者は現在のスポーツカーが社会の鼻つまみものにならないためにも、高性能化の道に邁進(まいしん)するのは反対だ。運転の楽しさとは何なのかをもう一度見つめ直し、反社会的にならずにそれを楽しめるスポーツカーこそが、2015年的なスポーツカーではないかと思う。 (池田直渡・モータージャーナル)