「ユーミンの奴隷」になっても好きなものを信じる――時代とともに、松任谷由実の歩んだ50年
結婚後に歌手活動を休止。歌には全く自信がなかった
76年、松任谷正隆と結婚してアーティスト活動を休止した。家庭に入り、作家活動に専念するつもりだった。 「曲には絶大なる自信を持っているけど、歌には全く自信がなかったから。私のほぼ同期には吉田美奈子という超絶歌のうまい人もいましたし。いまだに自分の声を受け入れられない。でもいざ休んでみると、むしろ自分は表に出ないと作家としても駄目になるんだと気がつきました」
77年、彼女は松任谷正隆からの勧めもあって、松任谷由実名義でアーティスト活動を再開する。プロデュースは今日まで松任谷正隆が担当している。 「ショービズでは名前が大事(笑)。『3文字の名字ってかっこいい』が7割ぐらいだったけど、それまでいたレコード会社も辞めるタイミングだったし、『結婚しました。辞めますね。名前も変えます』というのは決まりがいいなと。そうして80年代に入ると、今度は女性が私の音楽に気づきだしてくれて」
女性たちの「教祖」に。「流行が分かる時もある」
好景気のなか彼女のアンテナはいち早くリゾートブームを察知し、アルバム『SURF & SNOW』(80年)を作った。81年のシングル「守ってあげたい」が大ヒットして再びユーミンブームが起こる。 「今とは違って大衆が同じ方向を向いて大移動していた時代だったから、スタンスも作りやすかったですね」
男女雇用機会均等法が成立した85年のアルバム『DA・DI・DA』からは曲の主人公に自立した女性像を据えた。 レジャーやドライブのBGMから女性のライフスタイルのBGMへ。バブル景気と足並みをそろえながらユーミンは「OLの教祖」「ラブソングの教祖」として女性たちからの絶大な支持を獲得する。創作への確固たる姿勢と高感度なアンテナで時代を語る痛快なトークが女性ファッション誌のページを飾った。 「曲を作っている人格とプロモーション活動で外に出ていく人格は別物。正隆さんと曲を作った後に『純愛三部作』や『恋の任侠』といったコンセプトを自分で決めてはものすごい量のインタビューを受けていた。商業主義を知ってこそのポップだと思っていたから。『ここが見出しになるぞ』と思いながらしゃべっていた。あの企業努力こそが私のロックスピリットだったのかもしれない(笑)。でも当時の女性がついてきていたのかと言えば、そうではなかった気もしますね。『ユーミンになれると思ったら身のほど知らずよ!?』なんてね(笑)」