水俣病巡るマイクオフ事件機に”政治解決”へ高まる期待…一方で政界の「導き手」不在を嘆く声も
取材・撮影:KKT熊本県民テレビ
水俣病問題が大きく動くとき、必ず日本の政治そのものも大きく動いてきた。いわゆる「政治解決」、全員に痛みを強いる解決を政治の力で目指すこの手法は、時に政権交代のようなダイナミズムを必要とする。だからその度に鍵を握る政治家が登場してきた。 「マイクオフ」事件をきっかけに急浮上した3回目の政治解決に期待が集まる一方で、長年水俣病に携わる人ほど同じ懸念を口にする。「キーパーソンがいないんだ」と。(熊本県民テレビ記者 東島大 /敬称略)
姿勢変わらぬ環境省、解決への導き手どこに
5月1日、水俣病犠牲者慰霊式のあと行われた伊藤信太郎環境相との懇談の席で、被害者の発言が遮られたいわゆる「マイクオフ事件」。これに色めきだったのは、1800人の原告を抱え、国などを相手に裁判を続けている弁護団も同じだった。弁護団は去年9月の大阪地裁での全面勝訴判決を得て、裁判の早期終結を国に求める和解も視野に、環境省を直接交渉の場に引き出すタイミングを計っていたところだった。 しかし「マイクオフ」事件から3週間後、環境省に抜本解決を求める要請書を提出した弁護団長の園田昭人の顔色は冴えなかった。環境省から対応に出てきたのは権限を持たない課長補佐で「持ち帰って確認します」「何も言うことはありません」の繰り返しに終わった。 こうした環境省の対応を園田は怒ったが、しかしまったく予想していなかった訳ではなかった。政治解決から和解にこぎ着けた過去2回とは違う。そういう危機感を持っていた。 つまりは、キーパーソンの不在だ。
「状況はだいぶん違うでしょうね。あの時は最高裁判決があって、認定患者が急増して与党にプロジェクトチームができたりとか、そういう流れがありました。今は自民党の中にそんな動きはないですし、じゃあ園田博之さんみたいな人がいるかっていうと、いないです」 園田博之。政界の寝業師と言われた男である。
政界の「寝業師」が導いた政治解決
熊本県選出の衆院議員園田博之は、その異名の通り自民党からの離党復党を繰り返して政界再編のキーマンとして活躍し、与野党問わず人脈が広い。父は水俣病を公害認定した当時の厚生相・園田直。盤石な選挙区には水俣市がある。政策通として知られた政治家が最後の仕事に定めたのが水俣病だった。 2004年最高裁が国と熊本県の責任を認定し、認定のハードルを引き下げたことで水俣病を巡る状況は一変した。厳格な水俣病の認定基準を前にこれまで諦めていた被害者からの認定申請が急増する一方で、明確な基準を失った熊本・鹿児島両県の認定審査会は活動を停止した。 この時政治は大きく動いていた。第1次安倍内閣、福田内閣、麻生内閣と自民党政権は不安定さを増し、民主党への政権交代を期待する世論が湧いていた。福田内閣で園田は水俣病問題の与党プロジェクトチームの座長として救済策の骨格を練る。 新たな負担を嫌った原因企業チッソには「被害者補償を終えれば別会社として再出発させる」というアメ玉を用意した。しかしこのアイデアは被害者団体や世論に強い反発を呼び、民主党の対案が支持を膨らませていく。大詰めを迎えた2009年6月、突然与野党協議のレベルが引き上げられた。「法案はもう私の手を離れましたから」。それまで民主党案をまとめていた地元議員の松野信夫は憮然とした表情で協議の場を去った。その後自民・公明・民主は即座に合意、反対する被害者団体の怒号が飛び交う中で特措法は成立した。政権交代の直後に控えた民主党に園田がその豪腕ぶりを見せつけたとも言われている。これが第2の政治解決の顛末だ。