水俣病巡るマイクオフ事件機に”政治解決”へ高まる期待…一方で政界の「導き手」不在を嘆く声も
混乱続く水俣病 現れた2人の大物政治家
第1の政治解決は、それから10年以上遡る。 1993年、日本新党を旗揚げした細川護熙が首相の座についた。県知事時代水俣病問題の解決を国に強く求めていた細川に期待が集まったが、細川は「考えは変わっていないが立場が変わった」と発言し落胆させた。 一方水俣病は複雑・大規模化する裁判に加えて、想定外の方向からも問題が提起された。日本中が関心を抱いていた当時の皇太子の結婚だ。交際が発表されていた小和田雅子の祖父が過去にチッソの社長を務めていた点が水面下で問題視されていたが、この年、皇太子自身が会見の場で「チッソの問題があったために交際を一時中断せざるを得なくなった」と述べたのだ。あらゆる意味で混乱が続く水俣病。 ここで2人の大物政治家が登場する。のちの衆院議長・大島理森と、自民党のプリンスと呼ばれた加藤紘一だ。
翌年誕生した村山連立内閣は「戦後政治の総決算」を掲げた。村山は大島を環境庁長官に任命し「水俣病を解決して欲しい」と告げた。その時大島はこう思ったという。 「自分の中には、水俣病というのは戦後日本が新たな社会を作り上げた結果として生まれた問題であるという意識がありました。しかし一方で、これはまた大変だなと」 当時を物語るエピソードがある。政治解決の方針をめぐって被害者や支援団体の路線対立が激しくなっていたある夜のことだ。支援団体の幹部が「君に会いたいという人がいる」と福岡市内のホテルに呼び出された。不審に思いつつも指定された部屋を訪ねると、そこで待っていたのは大島だった。「わざわざ、ありがとう」。満面の笑みをたたえながら大島は彼の右手を両手で握った。 水俣病の支援団体は数多くある上、ひとつの団体の内部も一枚岩ではなかった。大島はそうした状況を丹念に分析し、見定めたターゲットにここぞというタイミングで接触した。タフ・ネゴシエイターとして知られた大島の真骨頂だった。