「銀行を辞めてこい」強引に家業に戻らされ、涙に濡れた夜 医療機器「ヘルストロン」の会社を受け継いで
◆父との軋轢
――白寿生科学研究所入社後、どのような仕事をしていたのでしょうか? 最初に配属されたのは経理でした。 銀行勤めの経験も生かしつつ、会社の内情や金銭の流れなどの全体像を把握し、会社のことを勉強しろ、という意味だったと思います。 同時に株式公開プロジェクトやアメリカのFDA取得プロジェクトのサブリーダーを兼任しました。 翌年には、新設の経営企画室の課長になり、経営計画など事業運営に関わるようになります。 ――順調にキャリアを築いていったのでしょうか? 当時は旧態依然としており、利益は出ていても、細かいところで整備されていない部分が多くありました。 さまざまな不備や不都合を、尻拭い的に繕っていました。 「なんでこんな状況になのか」と、たびたび腹立たしく感じたものです。 株式公開の話があったため、「組織や業務をオーガナイズして、しっかりした経営ができるようにするべきだ」と父に進言しました。 すると、徐々に関係がギクシャクしてきたのです。 父は29歳から社長だった自負があったのでしょう。 私の言うことを聞き入れようとはしませんでした。 私と父は、至るところで考え方が正反対でした。 昭和的な社長の振る舞いを見せる父と、合理主義的な私、というところでしょうか。 お互いに噛み合うことが少なく、事あるごとに意見が対立しました。
◆親子継承の難しさ
――父である先代と、どのように折り合いをつけていったのでしょうか? 学んだのは、ものは見方次第である、ということです。 私と同じように事業を承継した方と話をすると、やはり「ならでは」の苦労がたくさんあると感じます。 たとえば、私は現在、93%の自社株を保有しています。 会社の規模を考えると、奇跡的なことです。 結果として先代のやり方は相当な「是」だった。 ありがたいと感謝もしています。 でも、「父とは根本的に考え方が合わない」ため、過度に期待するのはやめました。 一方で、自分の主張を無理に押し通すのもやめて、自分なりの折り合いを見つけていきました。 ――親子という関係の影響もありますか? 家業がなくても、親子の問題はよく聞く話です。 「俺の言うことを聞け」と絶対的な存在として迫る親もいますし、「老いては子に従え」と、親に対して主導権を握ろうとする子もいる。 いずれにしても、相手に対して期待するからだと思っています。 思い通りに事が運ばないとがっかりする。 失望や気持ちの落ち込みがよくない方向に向かう。 だったら、相手に対して最初から期待しておかないことが必要になります。 寂しい言い方かもしれませんが、「期待するとがっかりするから、最初から期待しておかない」ことは、アトツギとしての私の重要なマインドのひとつになっています。
■プロフィール
株式会社白寿生科学研究所 代表取締役社長 原 浩之 氏 1971年、東京都生まれ。慶應義塾大学を卒業後、1994年にあさひ銀行(現・りそな銀行)に入行。1998年、株式会社白寿生科学研究所に入社し、2020年に代表取締役社長に就任。日本ホームヘルス機器協会理事、早稲田大学総合科学研究機構グローバル科学知融合研究所招聘研究員なども務める。