「銀行を辞めてこい」強引に家業に戻らされ、涙に濡れた夜 医療機器「ヘルストロン」の会社を受け継いで
◆一度は違う道を歩んだが……
――大学卒業後は銀行に就職したそうですが、その経緯を教えてください。 医学博士だった祖父は、私に医者になることを望んでいました。 でも、私自身の適性は文系でした。 父からは、暗に銀行への就職を仄めかされました。 「銀行に勤めろ」と直接言われてはいませんが、父の背中に「銀行へ行ってくれ」と書いてあるような無言のプレッシャーがありました。 大学の経済学部で金融関係のゼミを選んでいたこともあり、父の無言の願い通りに銀行への就職が決まりました。 入行後は、東京・神田の支店に配属されました。 さまざまな業種業態の企業があり、あらゆる業界のバランスシートを見ることができたのがおもしろかったです。 法人相手に新規営業を行い、大勢の経営者と話ができたことも貴重な経験でした。 コミュニケーション能力も身につけられたと思います。 銀行の仕事がとにかくおもしろく、のめり込むように働きました。 おかげで会社からの評価も上々で、同期とのボーナス額に大きく差をつけるなど、充実した社会人生活を送っていました。 ――どのようにして白寿生科学研究所に入社することになったのでしょうか? 私が銀行に勤めている間、白寿生科学研究所もどんどん成長していき、父から「戻ってきて家業を手伝え」と言われました。 でも、私は銀行の仕事が順調なのでその気にならず、しばらく何も返事をしませんでした。 すると、1997年8月、「仕事を休んでこっちに来い」と父から連絡がありました。 有無を言わさない感じで、忘れもしません。 会社に行くと、証券会社や監査法人など大勢が集まっていて、社長だった父親の隣に座らされ、自社株売買の話を聞かされました。 そのとき、「提案書」といって見せられた書類の「後継者」の欄に「浩之様」と自分の名前が書いてあったのです。 ――アトツギであることは、もう決まっていたということですか? 外堀がすでに埋まりつつあることをひしひしと感じましたが、「いやいや、待ってくれよ」という気持ちがありました。 銀行員として順調にキャリアを築いており、何より仕事がおもしろかった。 しかし、その日の夜に「銀行を辞めてこい」と父から念押しされました。 悔しくて一晩泣きました。 しかし、結局は家業を継ぐことを決断し、翌9月に銀行に退職の意思を伝え、その年いっぱいで辞めることになりました。 父は当時62歳と高齢でしたから、仕方がないと割り切って覚悟を決めました。