「その子が持っているものを伸ばせばいい」奥山佳恵がダウン症の次男を育てて気づいた“本来の子育ての姿”
2人の子どもを育てる女優の奥山佳恵さんは、2013年、次男がダウン症候群であることを公表した。ダウン症が判明した当時を「自分が育てられるのか不安で仕方がなかった」と振り返る奥山さん。しかし実際は、健常児である長男の子育てとほとんど変わらなかったという。「次男はできることが少ないけれど、できてもいいし、できなくてもいいと思えるようになってからは肩の力が抜けた」と話す。奥山さんが気づいた“本来の子育ての姿”とは――。(聞き手:荻上チキ/TBSラジオ/Yahoo!ニュース Voice)
想定外だったダウン症の告知。受け入れられたきっかけは母からの言葉
――お子さんがダウン症だと診断された時は、どういう心境だったのでしょうか? 奥山佳恵: 我が家はそれまで病気とは無縁だったので、元気な子が生まれて大きくなるのが当たり前だと思い込んでいたんですね。なので、あらかじめ子どもの兆候などを調べることもありませんでした。次男も「無事に生まれてきた。よかったな」になるはずだったんですけど、低体重で生まれてきたんですよ。なかなか大きくならないというところで、お医者さんから気になると言われて……。 詳しく検査をしたところ、心臓に3つの穴が空いていることがわかったんですね。心臓に穴が空いている子は高確率で染色体異常の可能性があるということで、病院の遺伝科にかかり、そこで初めてダウン症候群だとわかりました。私の場合は、無事に出産をしてから段階を踏むように子どもの個性が明るみに出てきた。本当に想定もしていなかった現実でした。 ダウン症と告知を受けた瞬間、頭が真っ白になりました。思考停止ですね。人間に備わっている能力だと思うんですけど、余計なことを考えられないフリーズ状態になりました。私も旦那さんも同じ状態。心境が一緒だったから、そうなったと思うんですけど。 頭が真っ白な状態で病院を出て、車に乗り込んで、ふと抱えている赤ちゃんの顔を見たら、可愛かったんです。運転席に座っている主人の背中に向かって「ダウン症ってよくわからないけれど、この子が可愛いことはわかる」と言うと、主人は振り向きもせず「それだけで良いんじゃない?」って言ってくれたんです。それが、私が次男のダウン症と付き合う初日でしたね。 ――告知された後、すぐに気持ちを切り替えて行動に移すことができたのでしょうか? 奥山佳恵: 前向きに行動し始めたのは、告知をされたずっと後でしたね。告知を受けたばかりの頃は私の心が元気じゃなかったから、心が前向きになってくるワードがなかなか出てこないんですよね。まだ、ダウン症があることを認めることすらできなかったので「ダウン症 特徴」とか「顔 傾向」とか、どうしてもうちの子がダウン症じゃないという情報ばかり求めて模索していましたね。 世の中にはたくさん情報があふれているはずなんですけど、検索しても暗いものばかりが目についてしまって、暗雲が立ち込めるという状況でした。例えると、家にとんでもなく怖い何かがやってきたような恐怖。それまで全く関わったことのないタイプの子どもだったので、想像ができない未来というのは絶望しか考えられない。怖いんです。真っ暗な山の中に、明りもなく、地図もない状態で夫婦で「行け」と言われたような感じ。そんなの怖いじゃないですか。これからどうなってしまうんだろうって。本当に毎日ファイティングポーズで、闇から出てくる何かと戦う気持ちで挑んでいました。 ただ、日々暮らしている中で「あれれ」と思うんですよね。恐ろしい何かは、やってこない。ただそこに可愛い赤ちゃんがいるだけなんですね。得体の知れない恐怖は私の不安そのものだったんだとやっと気がつきました。 ――お子さんのダウン症を受け入れられたきっかけがあったのでしょうか。 奥山佳恵: きっかけは、母にやっと告知ができた時でした。私の母は、私の100倍陽気な人で“奥山家の太陽”と言われるような人。明るくて何事にも笑っている人が、もし眉間にシワを寄せたら怖いじゃないですか。もし、なんでもウェルカムだった人に子どもの事実を伝えて否定されたら、ちょっと立ち上がりかけた私の骨が砕けるなと思って、怖くて言えなかったんですね。だから、告知を受けてから1カ月以上、母にだけ言えなかったんです。周りにも「私から言うので」と口止めをして、母だけが知らないという状況でした。 母とはとても仲が良いので、言いたかった。だけど怖い。顔を見るのが怖かったので、最終的に電話で伝えることにしました。用意していた言葉は「ダウン症だったんだ」ということ。それから「ダウン症の子のおばあちゃんにしちゃってごめんね」だったんですよ。本当にドキドキしました。一応俳優なんですけど、結果的に棒読みになっちゃって。なんの会話の脈絡もなく、会話が途切れた瞬間にそれだけ母に伝えたら、それまで話していた軽快なおしゃべりと変わらずおんなじトーンで「そうだったの。じゃあ一緒に育てていきましょうね」って言ってくれたんですよ。私はやっと言えたということと、母の態度が変わらなかったことで号泣してしまいました。泣いていることがバレたら恥ずかしくて相づちしか打てなかったんですけど、その間、母はたくさんしゃべってくれて。おしゃべりな人でよかったなと思いながら電話を切りました。 実は後から知ったのですが、母は始めからわかっていたそうなんです。私には言わなかったんですけど、次男が生まれて駆けつけてくれた時、赤ちゃんの顔を見て、直感的に「障がいがあるかもしれない」と。母とは離れて暮らしているので、なかなか会えませんが、その間も「佳恵はごはんを食べているかな」「あの子を育てているかな」とずっと心配してくれていたんです。 「なーんだ。こんなに大きな愛で包まれていたんだな」と思った時に、「この子は不幸な子なんかじゃない。私が受け入れてお母さんにならなくてどうするんだ」と、初めて母親になれた気がします。母との電話を切ってからは、一度も涙を流していませんね。 ――昨今、出生前診断について議論されることも多いですが、奥山さんご自身はどのように考えていらっしゃいますか? 奥山佳恵: 実は長男を育てる時、育児書通りにしなければと頑張りすぎて、出産してから3カ月くらい笑うことを忘れて殺伐としていた経験があります。次男を妊娠した時、まだ出生前診断はありませんでしたが、健常児である長男の子育てに苦戦したので、事前に障がいのある子が生まれることがわかっていたら、泣く泣く辞退していたかもしれません。 本来、出生前診断は備えるためにあると思うんですよね。お腹の子の情報を事前に知っておくことで知識を深めたり、もし命に別状があったらすぐに手術ができるように準備したりとか。でも、今の出生前診断は「何事もありませんでしたよ」という安心感を得るためのものになってしまっていると思うんです。私も妊婦だったので、不安になる気持ちは非常にわかるんですけど、思ってもみなかった答えが出たときに迫られるストレスや時間との戦いもあります。本当にもしものことを考えて診断を受けるか決めるべきだなと思います。