平野啓一郎さん「富士山」インタビュー 現代社会と向き合い生まれた短編集
小説外の人物の感情をすくい取る実験
――大トリを務める「ストレス・リレー」が、この短篇集で目指す世界を一番端的に表している短編だと感じました。ささいなストレスが人から人へと伝染していきますが、最後にルーシーという女性がストレスのバトンを誰にも渡さず、平穏が訪れます。なぜ、ルーシーはリレーを終わらせることができたのでしょうか。 コロナがヒントになりました。あのとき、感染した人を隔離して感染力が収まるまで待つ方法がとられましたよね。また、感染した人と接触した人数が多いほど、感染者数も増えました。ストレスも同じです。ルーシーは京都に住む留学生で、もともとコミュニケーションの頻度が高くない。ストレスを受けた後、鴨川の上流のほうでのんびり一人で過ごすんです。そうやって受けたストレスを自分の中で収めることができた。鴨川の北のほうは観光客も少なくて、本当に心を落ち着けるのにいい場所なんですよ。 じつは「ストレス・リレー」はこの本の中で一番実験的なことをやってみたんです。それは〈小説外〉の人物の感情をすくいとること。小説内の喜怒哀楽って、基本的には主要登場人物との関係性の中でしか語られない。主役と脇役との。 だけど、それってウソだと思うんですよ。本当は主要登場人物に満たない人間との、つまり小説の外部の人間との関係の中で揺れる感情があるはずです。だけど、小説や舞台、映画が登場人物間の感情しか描いてこなかったから、僕たちは相手がムッとしているときに、自分に原因があるのではと考えてしまう。本当は、たまたま寄った店の店員に嫌な態度をとられたからかもしれないのに。 以前、ドラクロワという実在の人物の日記に基づいて小説を書いたことがありました(『葬送』)。そのときも、小説のラストに差し掛かっても実際の日記には毎日のように新しい客が訪ねてきて、ドラマのうねりとは関係ないやりとりをしていくんです。でも、それを全部書くと収拾がつかないから、ないことにする。この小説の〈嘘〉が気になっていたんです。だから今回は、継続的な関係のない人たちの間での感情の揺れ動きを書いてみました。 ――これまで、平野さんはご自身の作品を「第3期」「第4期」と体系立てて発表してきました。この短篇集の位置づけは。 前作の『本心』が第4期という位置づけだったのですが、会う人会う人に、「これで第4期も終わりましたね」と言われて、言われてみれば、自分でもこのシリーズも一区切りついたかな、と感じて次のシリーズに進もうと思いました。第5期の長編を書く前に、一度短編で思考と手法を探ろうと書いたのが今作です。 ――第5期はどんなシリーズになりそうですか。 これまで唱えてきた「分人主義」は継続的な関係の中で、人格が分化していくという発想でしたが、第5期は、そこにもう少し運や偶然性、刹那的な出来事の影響が入ってくるのではと思います。 <平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)さんプロフィール> 1975年、愛知県生まれ。京都大学法学部卒。1999年、大学在学中に文芸誌「新潮」に投稿した「日蝕」により芥川賞を受賞。『日蝕・一月物語』、『葬送』、『ドーン』、『空白を満たしなさい』、『マチネの終わりに』、『ある男』、『本心』、『三島由紀夫論』など著書多数。『死刑について』では、死刑制度の是非について様々な角度から語った。 (文:清 繭子)
朝日新聞社(好書好日)