愛する娘に津波で失った母の面影。〝ひとりぼっち〟から新たな家族、見つかった「自分の居場所」 能登の被災者に伝えたい「大丈夫」
翌朝からは親戚宅で過ごした。両親と祖母の3人の行方は分からないまま。遺体安置所に泣きながら通い、約1カ月後、自分が流れ着いた同じプールに積み上がったがれきの中から祖母が見つかった。近くにいたんだなと感じた。 ▽母のセーター 父と母の行方が分からないまま半年が過ぎ、石巻市で1人暮らしを始めた。「本当に一人になっちゃった」と初めて実感した。料理上手だった母に雑煮の作り方を教わればよかったと今でも後悔している。 2013年11月、身元不明の遺体の似顔絵や服装を掲載した新聞記事に見覚えのあるセーターがあった。母がいつも着ていたものだ。もしかしたら見つけてほしくて着ていたのだろうかとも思った。震災から2年8カ月後、母の遺骨が見つかった。セーターは母の生きた証として今も大切に取ってある。 ▽生かされた命 当たり前の日常は突然奪われる。二度と私のような人を生まないために―。そんな思いで2011年の夏ごろから、自身の経験を語り始めた。人前は苦手だが、涙を流しながら親身になって聞いてくれる人もいた。取材を受けることも増え、そのときは必ずペンダントを付ける。あの日、津波にのみ込まれた時に付けていたものだ。自分にとってはお守りのような感覚だ。
震災が大切な家族を奪い、全てを変えてしまったが、内気だった自分を人として成長させてくれたのも震災だった。あの時死んでいたかもしれない。生かしてもらった命を人のために使いたいと思うようになった。 両親には「楽しく暮らしてるよ。心配しないで」と伝えたい。震災から13年がたった今でも、父の行方は分からない。どこにいるの。思いを巡らせ、見つけてあげたいと切に願う。 ▽子どもの誕生 幼稚園からの幼なじみだった男性と再会し2017年に結婚した。家族がほしいと願っていた。「自分の居場所ができた」と感じた。同じ年の6月、待望の長女を出産した。ある夕暮れ時、あやしていた娘の顔に母の面影が重なった。「そばにいるよ」という母からのメッセージのようにも思えた。翌年には息子を授かった。 子育てに追われ、いつしか両親が夢に出てくることもなくなった。毎日のように聞いていた母の声も思い出せなくなった。「もう私たちのことは考えなくていいよ」。そう言われている気がした。でも、両親に孫の顔を見せてあげたかった。子どもには「じいじ、ばあばに会わせてあげられなくてごめんね」と思う。
▽重なる姿 元日の能登半島地震。被災地の光景にあの日がフラッシュバックした。ニュースで家族全員を亡くした男性を見た。「あの時の私」に重なった。今すぐにでも男性の手を握り「大丈夫。生きていればいいことがある」と伝えたい。13年前、全てを失い「心から笑える日なんて来ない」と諦めた。でもここ数年で心の底から笑えるようになったから。 被災者に向けた「頑張れ」という言葉が嫌いだ。もう十分頑張っているのに、どれだけ頑張ればいいのと思う。今は絶望しかないかもしれない。希望の光が見えるまで、時間はかかるが「生きることを諦めないで」。そう伝えたい。