愛する娘に津波で失った母の面影。〝ひとりぼっち〟から新たな家族、見つかった「自分の居場所」 能登の被災者に伝えたい「大丈夫」
あの日から6年がたった夕暮れ時、娘の顔をそっとのぞき込んだ。「お母さんだ」。生後数カ月の娘は、まるで生まれ変わりのように亡き母にそっくりだった。宮城県石巻市に住む嶺岸美紗子さん(35)は2011年の東日本大震災で家族全員を津波に奪われた。 宮城で青いこいのぼりの祭り 大震災が契機、能登地震にも思い
突然ひとりぼっちになった寂しさを埋めるよう、13年間必死に生きてきた。守りたい家族もできた。今年の元日、能登半島を襲った地震にあの日の光景が重なった。今、能登の被災者に伝えたい言葉がある。(共同通信=山田純平) ▽4人家族 石巻市門脇地区に30年続く老舗の文房具店があった。近くには小学校があり、いつも多くの子供たちでにぎわっていた。嶺岸美紗子さんはそんな店の一人娘として生まれた。店を切り盛りしていたのは祖母の榊美代子さん。父健之さんと母ひとみさん、そして美紗子さんの4人で暮らしていた。 2011年3月3日は22歳の誕生日。家族に祝ってもらった記憶があるが、詳しいことはあまり覚えていない。その8日後、当たり前だった日々が奪われる絶望が待っていた。 11日午後2時46分。自宅で出かける準備をしていると立っていられないほどの揺れを感じた。揺れが収まったが、家の中は皿が割れ、店の文房具が散乱していたが、家族全員の無事を確認した。避難所は隣にある母校の門脇小。近隣住民らは避難を始めており、家族に避難を促した。
一足先に外に出ていた祖母がつぶやいた。「津波が来た」。玄関の小窓が割れ、茶色い水が勢いよく流れ込んできた。とっさに目をつぶった。 ▽灰色の海 「ビービービー」。どこかで鳴っている子ども用防犯ブザーの音で意識を取り戻した。どれほどの時間、気を失っていたのだろう。首まで水につかっていた。ふと見上げると、ガレキの隙間から薄暗い空が見えた。 必死にはい上がると、辺り一面は濁った灰色の海水につかっていた。自宅があった位置から推測すると、流れ着いたのは門脇小のプールだった。その母校は火事で赤く燃えていた。「助けてください!」。学校の方向から誰かの声が聞こえた。助けられないのは分かっていた。それでもその声は今も脳裏から離れない。 自分は助かった。両親も大丈夫だろうと思いながら、避難した高台から空を見上げた。満天の星と火の粉が飛んでいた。こんなにきれいな星空を見たのは初めてだった。避難した高校に家族はいなかった。嫌な胸騒ぎがした。