NHK『歴史探偵』がスルーして“批判が殺到”した宮沢賢治の「ディープすぎる宗教問題」 はげしい勧誘活動が父やカムパネルラのモデルとの関係をこじらせた
■『銀河鉄道の夜』誕生の背景にあった、賢治の「熾烈な勧誘活動」 賢治には肉体関係がないだけで、実質的には唯一の恋人といえる存在――今風にいえば、ブロマンスの相手だった保阪嘉内という男性がいました。保坂とは盛岡高等農林学校の寮で同室でしたが、保坂が退学処分を受け、離れ離れになってしまったことから寂しくて、賢治はより一層、熾烈なまでの勧誘活動をしてしまいます。 かつて彼らは大正7年(1917年)、二人っきりで岩手山を夜間登山し、頂上から銀河を眺めながら、賢治の言葉によると「無上道(=最高の悟りを体現した生き方)を成そう」と誓いあったそうです。賢治は中学時代からすでに法華経(日蓮宗の経典)を読み込み、保坂も江戸時代からつづく神道系宗教団体・禊教信者の家系に生まれた「宗教二世」でしたから、二人は本当にソウルメイトでした。 しかし賢治は、自分が傾倒する国柱会の信仰を保坂と共有することに執着しすぎるようになります。同じ信仰を得て、相手と一体化するイメージなのでしょうが、「我が友、保阪嘉内、我が友、保阪嘉内、我を棄てるな」などと彼にすがりつきすぎた賢治は、逆に保坂から棄てられてしまったのです。 賢治と保坂は決裂後も一度だけ、東京・上野の帝国図書館で再会しました。しかしこの時でさえ賢治の勧誘が始まったので、その後、二人が対面することはありませんでした。 そして後年、あれだけ一緒に過ごしてきたのに、今や手紙だけの付き合いになった保坂に送られたのが、名作童話『銀河鉄道の夜』なのでした。主人公の親友がとつぜん死ぬ場面から始まる物語ですが、信仰を共にできなかった保坂は賢治にとっては、もはや死者同然だったのでしょう。 このようなあまりにも濃密な精神的背景は、『歴史探偵』では取り上げづらく、背景の文脈ごとスパッとカットする決断をしたのだと考えられます。 ちなみに同番組は、賢治の詩『永訣の朝』(『春と修羅』)の「あめゆきとてちてけんじや」の部分を「雨雪を取ってきて、賢治」と訳した“誤訳”でも炎上したのですが、「けんじゃ」=「賢治の愛称」とする解釈を一部に定着させた昭和の詩人・山本太郎が、賢治と同じ国柱会の信者だったことも最後にお話しておきます。
堀江宏樹