自衛隊「統合作戦司令部」の機能を同盟網の中で確認する――指揮権並列型体制下での同盟国・同志国等との連携強化
想定される統合作戦司令部の組織体制
統合作戦司令部の創設については、2022年に策定された「安保三文書」を構成する「国家防衛戦略」のなかで、「統合運用の実効性を強化するため、既存組織の見直しにより、陸海空自衛隊の一元的な指揮を行い得る常設の統合司令部を創設する」とされていた(その後「統合作戦司令部」と仮称)。 統合作戦司令部の創設により、陸海空三自衛隊は平時から一元的に同司令部の指揮を受けることになる。その際、統合作戦司令部のトップとなる「統合作戦司令官」は、陸海空幕僚長と同格の将官が務め、陸上総隊、自衛艦隊、航空総隊、自衛隊サイバー防衛隊、宇宙作戦群を指揮する。 同司令官の下、司令部には統合作戦副司令官、幕僚長、統合作戦司令官補佐官、総務官、情報部、作戦部、後方部、指揮通信官、法務官が配され、240名態勢でスタートすることが想定されている。
同盟国間の指揮権調整のバリエーション:韓国・台湾(~1980年)・日本
ところで、同盟国同士の指揮権調整の在り方として、一般的には指揮権「一体」型と「並列」型がある。前者の例として、たとえば第二次世界大戦のヨーロッパ戦線では、アメリカ人であるドワイト・アイゼンハワー将軍(戦後に大統領)が、西側連合軍全体の指揮をとった。現在でも、NATO(北大西洋条約機構)では司令官にアメリカ人、副司令官にはイギリス人、ナンバー3の参謀長にはドイツ人をあてるかたちで、ヨーロッパ連合軍最高司令部という連合軍司令部体制を有している。これに対し、指揮権を統一するのではなく切り分けておくという体制もありうる。 それでは東アジアにおけるアメリカとその同盟国のあいだの指揮権調整は、それぞれどのような経緯で、いかなる体制を採用してきたのであろうか。 ■韓国:将来の米韓連合軍は「韓国人司令官の指揮下」に 1950年6月、北朝鮮が北緯38度線を突破して韓国に侵攻し、朝鮮戦争が勃発する。これに対しアメリカ軍を中心とする国連軍が韓国防衛のために介入すると、韓国の李承晩大統領は7月に韓国軍の指揮権をアメリカ人である国連軍司令官(ダグラス・マッカーサー元帥)に移譲した。1953年7月に朝鮮戦争休戦協定が結ばれたのちも、アメリカ軍は同年10月の米韓相互防衛条約にもとづいて引き続き韓国に駐留した。 国連軍司令官が保持する韓国軍への指揮権(作戦統制権)は、1978年に「米韓連合軍司令部」が創設されたのにともない、米韓連合軍司令官に移譲された。ただし両司令官ポストは、同一人物が兼務することとなっている。平時から設置されている米韓連合軍司令部は、司令官にアメリカ人、副司令官に韓国人を配し、アメリカ人たる米韓連合軍司令官が、在韓米軍と韓国軍から成る米韓連合軍の指揮権を持つ。その後、平時の指揮権は1994年に韓国側に返還され、有事指揮権についても返還に向けた検討が進められている。 ただし有事指揮権が返還された場合であっても、2018年の米韓合意では、正副司令官の配置をアメリカ・韓国間で逆転させたうえで、連合軍司令部体制自体は存続するとされている。つまり、米韓連合軍が韓国人司令官の指揮下に置かれる体制である。 ■台湾:「構想」に止まった米国との有事指揮権統一 1949年、国共内戦に敗れた国民党は台湾に逃れた。しかし台湾の蒋介石総統は、中国本土を追われたのちも、大陸の共産党政権への反攻作戦、すなわち「大陸反攻」をあきらめきれていなかった。 こうしたなか、蒋介石は1953年6月に米太平洋艦隊司令官アーサー・ラドフォード提督と会談し、台湾軍が中国大陸への上陸作戦をおこなうのをアメリカ海・空軍が支援する場合に、艦船の出航後、地上軍が指揮をとるまでの間、アメリカ海軍に指揮権を委譲すること、さらに上陸の初期段階の作戦にアメリカ軍が参加する場合に、アメリカ軍が撤退するまで、アメリカ側が全地上軍の指揮をとることなどを協議した4。 ただ、米台間の有事指揮権統一は、そうした構想が話し合われたにとどまったようである。そもそもそこで想定されていた有事とは、台湾側による大陸反攻という、現実味を欠いた状況であった。そして米台同盟自体、1979年の米中国交正常化の結果、1980年に終了する。 ■日本:指揮権並列型体制 日米同盟成立時の事情を振り返ると、もともとアメリカは日本とのあいだで指揮権一体型の体制をとろうとしていた。具体的には、日本占領末期におこなわれた日米行政協定(1951年9月に署名された旧日米安全保障条約の細目として1952年2月に署名。現在の日米地位協定)締結交渉において、有事の際、日本の実力組織(当時は警察予備隊)は「アメリカ政府によって任命される最高司令官の統一指揮の下に置かれる」とする条項を同協定に盛り込むことを主張していた5。これに対し日本側は、「日米の平等対等関係は消失」することになり、かつ「憲法上の問題がある」ため、アメリカ案の受諾は「至難」と返答した6。結局アメリカ側が求めたような規定は日米行政協定には含まれなかった。 ただし、旧日米安保条約締結交渉終了後の1952年7月23日、吉田茂総理はマーク・クラーク米極東軍司令官に口頭で、「有事の際に単一の司令官は不可欠であり、現状の下ではその司令官はアメリカによって任命されるべきである」と約束したとのアメリカ側の記録が公開されている7。1957年まで日本駐留米軍は「極東軍」と呼ばれ、東京に司令部を置き(当初はGHQ〔連合国軍最高司令官総司令部〕と同一組織)、ハワイの米太平洋軍(現米インド太平洋軍)から独立していた。 その後1978年に策定された「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)のなかで、日米同盟においては指揮権並列型体制をとることが初めて公式に明文化された。2015年に改定したガイドラインでも、「自衛隊及び米軍は、緊密に協力し及び調整しつつ、各々の指揮系統を通じて行動する」と規定されている。したがって日米同盟では、平時はもとより、有事においても、自衛隊とアメリカ軍の指揮権は統一されず、単一の連合(軍)司令官も立たず、連合(軍)司令部も設立されない。