死者の無念背負い、92歳まで続けた座り込み 被爆で右目を失明した男性の「原点」#戦争の記憶
広島の被爆者や市民は、核兵器保有国が核実験をするたびに、広島市中区の平和記念公園で原爆慰霊碑の前に座り込み、無言で抗議する。1973年から続くヒロシマの営みの背景には、日本被団協の礎を築いた老哲学者の「悟り」があった。かたや、被爆者たちは精力的に海外に出向き、広島、長崎の惨禍を国際社会へ告発していく。核兵器はその悲惨さゆえに道徳的に使えない―。「核のタブー」を確立していった。 【画像】原爆投下の8月6日をとらえた5枚だけの写真
死者の無念背負う座り込み
「12:00 20名決行中。かなり年配の婦人が1人いる。人通り絶え、殆ど眠りにつく。星が1つ。明日も暑そう」「11:15 入院中を押して被爆者すわり込み。いてもたってもいられなくてとのこと」「3:15 あと3時間。しかしこの声フランスに届くか?」 遊川和良さん(77)=広島市安芸区=がメモを残す。1973年8月29~30日、フランスの核実験に抗議し、被爆者や市民が平和記念公園(現中区)の原爆慰霊碑前でハンガーストライキを伴い座り込んだ。延べ170人が参加。ハンストを24時間貫いたのは13人で、原爆で姉を亡くした遊川さんもその一人だった。 この年の7月20日、フランスによる核実験に抗議するため、17団体が原爆慰霊碑前で座り込んだ。亡くなった被爆者の無念を背負い、碑を背にした。以来、核実験のたびに被爆者と市民が座り込みを続けている。 当時26歳の遊川さんが脳裏に焼き付けたのが、72歳の森滝市郎さんの姿だ。真夏の暑さの中で座り込み、終わると1人静かに帰っていった。「老いてなお、それだけ怒っている人を間近で見て、信念を感じた」 核実験のたびに慰霊碑前に座り込む森滝さんの姿は、ヒロシマの象徴となった。それには「前史」がある。
座っていて止められるのか
英国による中部太平洋クリスマス島での水爆実験を受け、広島の初期の被爆者運動を担った吉川清さん(1986年に74歳で死去)たち数人が1957年3月下旬~4月中旬に座り込んだ。当時は慰霊碑周辺に工事の土が堀り上げられていたといい、広島県原水禁が発行した座り込み10年の記録で、森滝さんは「寒い夜風を避けるために、塹壕のようなくぼみに降りて、蝋燭をつけて座り込んでいた」と描写している。この行動に心を動かされ、森滝さんが理事長を務める広島県被団協は「祈りと抗議の座り込み」をした。 1962年には、米国が核実験計画を発表した際、広島大教授だった森滝さんは大学に辞表を出して座り込みに臨んだ。日射病で倒れながらも4月20日から12日間続けた。 ある日、前を行ったり来たりする少女に言われた。「座っとっちゃ止められはすまいでえ」(座っていては止められない)。森滝さんは後に「座っていて実験をくいとめることができるのか、いったい平和運動は戦争をくいとめることができるのかという大きな質問として。自己の全存在をかけて座りこみ行動をしている私に鋭く問いかけられた」と振り返る。 考えに考え、ふと気付いた。慰霊碑の前に座り込むのは、自分のためではない。そういう人たちの輪が日々広がる様子は、精神の連鎖反応ともいえる。核分裂の連鎖反応に対し、精神の連鎖反応が起きたら、どれほど力が発揮されるだろうか―。「精神的原子の連鎖反応が物質的原子の連鎖反応に勝たねばならぬ」と悟った。1994年に92歳で亡くなる半年前まで、470回以上重ねた。 「人類は生きねばならぬ」「核と人類は共存できない」の言葉を残し、日本被団協や広島県被団協のトップとして被爆者運動を率いた森滝さんは広島高等師範学校(現広島大)教授だった1945年8月6日、動員学徒を引率中に爆心地から約4㌔の造船所の工場で被爆。飛び散ったガラス片で右目を失明した。2日後、静養先の宮島(現廿日市市)から治療のため広島に戻り、犠牲者の遺体や破壊し尽くされた街を目撃した。次女の春子(85)さん=広島市佐伯区=は「激痛で開かなかった左目をこじ開けて見た『原点』」が座り込みを続けさせたとみる。