死者の無念背負い、92歳まで続けた座り込み 被爆で右目を失明した男性の「原点」#戦争の記憶
取材を終えて
ノルウェー・オスロ市庁舎であったノーベル平和賞の授賞式を、2階の記者席から取材した。遠目に見ても、田中煕巳代表委員の演説中、涙ぐむ人が複数いた。1945年8月9日に長崎で見た「原点」に心を揺さぶられたのだろう。 受賞決定後、被爆者の歩みとその原点を知る人を訪ね、話を聞き続けた。平成生まれの私には、あの日の惨状も、被爆者が差別を恐れて隠れて過ごした日々も、そこから立ち上がっていった思いも、率直に言って完全に理解できるわけではない。何より、あの瞬間に焼かれ、何も語らず亡くなった人の言葉には、たどり着くこともできない。 それでも、高齢の被爆者たちが遠く離れた北欧で若者たちに語りかける姿に、私も取材し、書き続けるしかないと思った。時に理想論と言われながら、愚直に核兵器廃絶を求めた先人のつくりあげた「核のタブー」を守るも壊すも、私たち次第なのだと再確認した。(下高充生) たいまつを掲げる市民たち千人余りに手を振り続ける姿にぐっときた。ノーベル平和賞の授賞式があった10日夜。受賞者をたたえる行進がホテルに到着すると、箕牧智之さんたち日本被団協の代表委員3人がバルコニーに姿を見せ、歓声、拍手や「ノーモア・ヒロシマ」のかけ声に懸命に手を振って応えた。被爆者運動への大きな後押しを実感した瞬間だった。 被団協68年の歩みは、原爆被害者の運動をより広く、大きな輪にしていこうとする努力の積み重ねだった。結成大会では「人類の危機を救おう」と宣言。原爆被害への補償を国に求め、同じ被害を繰り返さない誓いになると説いた。自分たちのためだけの運動ではないのだ。ノーベル平和賞は、この訴えが世界に通じたという大きな証しだと思う。被爆地から遠く離れた極寒の北欧で胸が熱くなった。(宮野史康) ※この記事は中国新聞とYahoo!ニュースによる共同連携企画です
中国新聞社