死者の無念背負い、92歳まで続けた座り込み 被爆で右目を失明した男性の「原点」#戦争の記憶
「核のタブー」世界に植え付ける
1982年8月には、後に広島県被団協理事長に就く日本被団協代表委員伊藤サカエさん(2000年に88歳で死去)の一行が欧州を遊説。広島で被爆した国際部長の小西悟さん(2015年に85歳で死去)は1983年10月、50万人が参加したという西ドイツの首都ボンでの集会で、峠三吉の「にんげんをかえせ」をドイツ語で朗読。「盛り上がりと熱気は日本では考えられないくらいすごいものだった」と日本へ報告した。 東京都の被爆者団体「東友会」理事で広島被爆の山田玲子さん(90)は1985年10月、日本被団協の遊説団に加わり英仏に渡った。以来、ソ連や米国への訪問を重ね、17年までに23回を数えた。突き動かすのは、やはり「あの日」見た惨状だ。「多くが、名前も分からないまま焼かれた。再び被爆者をつくらないために記憶を伝えたい」 被団協だけでなく、広島、長崎を中心に、官民が被爆者を各国へ送り出した。無数の証言は、核兵器に汚名を着せ、二度と使ってはいけないという「核のタブー」を、各国の人たちの心に植え付けていった。 被団協は2010、2015年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議では約50人の代表団を米国へ派遣した。だが、2022年は役員たち4人に。被爆者たちも今や平均年齢は85歳を超えた。それでも、今月10日にノルウェー・オスロであったノーベル平和賞授賞式の代表団に、広島県被団協理事長の箕牧智之さん(82)や長崎原爆被災者協議会会長の田中重光さん(84)たち17人の被爆者が名を連ねた。 被団協の証言活動が高くたたえられての栄誉。「想像してみてください」。代表委員の田中熙巳さん(92)は受賞演説の終盤で呼びかけた。核兵器の保有を前提とした核抑止論を否定し、すぐに発射できる核弾頭が4千発もある世界に強く警鐘を鳴らした。 「みなさんがいつ被害者になってもおかしくないし、加害者になるかもしれない。核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか、世界中のみなさんで共に話し合い、求めていただきたいと思うのです」。被爆者の思いを継ぎ、人類を守るための行動を世界へ望んだ。