死者の無念背負い、92歳まで続けた座り込み 被爆で右目を失明した男性の「原点」#戦争の記憶
「ノー・ユーロシマ」 欧米の反核運動と共鳴
広島での地道な抗議の傍ら、森滝さんは日本被団協の活動などで海外へも渡った。1962年6月、ガーナの首都アクラであったエンクルマ大統領主催の平和会議に広島市の浜井信三市長(1968年に62歳で死去)と共に出席した。2カ月前の12日間の座り込みで得たばかりの「悟り」を発表し、「もの凄く共鳴をうけ、後から多くの人々から話しかけられた」(当時の日記)。 被爆者の訴えは1970年代後半になって、欧米の反核運動とさらに共鳴し始める。東西冷戦のさなか、人々は現実味を増す核戦争におびえたためだ。森滝さんは老体にむち打って、1981年11月に広島県原水禁の「語り部の旅」に参加。約1万5千人が集まった西ドイツ・ドルトムントでの集会では、欧州を広島のような核の戦場にしてはならないと、「ノー・ユーロシマ」を訴え、割れるような拍手を浴びた。帰国後、日本の反核運動の停滞を嘆き「ヨーロッパで燃えさかる非核ヨーロッパ運動と、非核太平洋運動を連帯させ、草の根運動を全世界に起こさねば」と決意している。 1982年6月には、第2回国連軍縮特別総会に合わせて渡米。ニューヨークでのデモ行進出発点のハマーショルド広場で「軍拡競争をやめさせられるのは草の根大衆行動しかない」と反核運動の連帯を呼びかけ、国際社会でも存在感を示した。 ただ当時、森滝さんはすでに日本被団協のトップを退いていた。国連軍縮特別総会で被爆者として初めて演説したのは代表委員の山口仙二さん(2013年に82歳で死去)だった。 「私の顔や手をよく見てください。よく見てください」。14歳の時、長崎市の兵器工場で学徒動員中に被爆し、上半身の重いやけどで7カ月入院したこと。首がちぎれかけた赤ん坊を抱く母親を見たこと。各国政府の代表を前に、核兵器の非人道性を叫ぶように訴えた。 右手に掲げた自らのケロイドの写真は、世界に原爆被害を伝えようと、被団協が作ったパンフレット「HIBAKUSHA」の1㌻。日英独3カ国語を併記し、総会前に10万部を刷っていた。「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ」と締めくくった演説は歴史に刻まれた。 被団協はこの時、国連へ41人の代表団を派遣した。通訳として加わっていた東京大名誉教授の西崎文子さん(65)によると、山口さんは当時、体調を崩していた。デモや集会への参加を控えて演説に臨んだといい「一途に伝えるものがある人の強さを感じた」という。