子どもの「心の不調」の大半は「病気」ではない…精神科医が明かす「根本的な治療手段」
早い段階で言葉を与えすぎる弊害も
鳥羽:といっても、最近は早い段階で言葉を与えすぎる弊害についても考えてしまいます。例えば、僕が教えている子どもたちは、僕が文章を書いてることを知っています。読んでいる子さえいる。 でも、小学校で僕の本を読むというのは言葉を与えすぎなんです。「僕の本に興味がある人は、十五歳になったら読んで」と伝えています。読解力のある小学生の子が言葉を獲得しすぎると、現実を受け止める感度がむしろ鈍ってしまう。現実を、すぐに言葉に当てはめて納得してしまうんです。 尾久:体験を自分のものとして落とし込む前に、手持ちの知識で即断してしまってるということですよね。僕のところにも、「私は躁とうつがあって、いま躁転してて……」みたいに滔々と語る子が来ます。そういうときには、知らないフリをして「躁転って、どういう意味なの?」と聞きますね。 鳥羽:子どもに別の言葉で嚙み砕いてもらう、と。 尾久:はい。「あなたにとっての躁転はどういう感じなの?」と聞きます。これは少し微妙な話ですが、境界知能(*1)ぐらいの人の一部は、受診時に難しい医学用語を多用しがちです。相手に見くびられないための防御反応なんです。 (*1)知的機能が「知的発達症」と「正常知能」の境界域にある状態。 そうやって生き延びてきた人が、必死に用語をつなぎ合わせて、取り繕っている。そういうときは本人が持っている言葉は奪わないほうがいい。 鳥羽:自分を守るために、言葉の鎧をまとっているわけだから、「お前は言葉に逃げている」なんて指摘したら、支えがなくなってしまうんですね。自分にとってアンバランスに見えるものが、他人にとって最良のバランスかもしれないということは、常に念頭に置いておきたいです。 ちなみに、尾久さんの親子関係へのコミットの仕方を伺いたいんですが、医者として親とはどんなコミュニケーションを取っていますか。 尾久:子どもを交えて三人で話しますね。親と二人きりは、なるべくやらないようにしています。病院なんて怪しいところに連れて来られた子からすれば、自分だけ診察室から追い出されて医者と親が話していたら不安になってしまう。先生が親側の人間だと思われると、打ち解けるのも難しくなりますから。 鳥羽:わかります。塾でも似たようなことがあります。「先生、二人で話せませんか?」と面談の際に子どもの前で言う親がいます。その場合、「それはよくないことです」と言葉や態度で示しますが。 尾久:稀に子どもの側から「同席したくない」と言われることもあります。「お母さんと二人で話してください」と。 紐解いていくと、喋っている自分を親に見られたくないとか、自分の本心がぽろっと出るのがイヤだとか、子どもによっていろいろ理由があります。自分のせいで責められるお母さんの姿を見たくない、というのもありました。 鳥羽:あぁ、親が傷つく姿を見るのは子どもにとってしんどいから。 尾久:子どもは敏感だから、無意識に人間の戦闘力がわかっちゃうんです。「三人で話したら、お母さんがピンチになる」と察してしまう。 鳥羽:わかります。子どもの前で親を責めないのは鉄則ですね。どんなに、親に怒りを感じても、そこは咎めない。若い頃はなかなかうまくできていなかったですが。でも、親を責めてくれ、と子どもから圧をかけてくるときもありませんか? 尾久:それもありますね。 鳥羽:そういうときは、半ば子どもの期待に応えながら、間接的に「味方だよ」というメッセージを伝えます。なかなかの神経戦です。 (構成:安里和哲)
鳥羽 和久、尾久 守侑