【図解】沖縄返還50年 戦後からこれまでを振り返る 坂東太郎のよく分かる時事用語
今月15日は沖縄がアメリカから日本に返還されてから50年という節目の日です。太平洋戦争で激しい地上戦が繰り広げられ、米軍の戦史に「ありったけの地獄を集めた」と刻まれた沖縄。この沖縄戦では日米合わせて20万人以上が犠牲となりました。戦後は米軍の占領下で「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる強権的手法で基地のための土地収容を強いられた悲しい歴史も抱えます。今回は特に、本土復帰した1972(昭和47)年以前を重点的に振り返りつつ、今日に残された課題を展望します。 【図解】太平洋戦争とは?
沖縄戦中から米軍が「占領統治」
太平洋戦争末期の1945(昭和20)年、米軍は3月26日に慶良間(けらま)諸島、4月1日に沖縄本島に上陸。その後、沖縄では住民を巻き込んだ壮絶な地上戦が行われました。この戦闘で一般住民約10万人を含めた約20数万人が犠牲になったといわれています。 沖縄県サイトの「沖縄から伝えたい。米軍基地の話。」によると、戦後の1945年からの5年ほど、復興政策が進んだ本土とは対象的に、沖縄はほとんど放置状態で「忘れられた島」といわれていました。米軍側と政府側の調整に時間を取られ、明確な統治政策を進められなかったからだといいます。 米軍は本島上陸後、沖縄での日本の施政権の停止と占領の開始を宣言しました(ニミッツ布告)。8月15日の太平洋戦争終戦後も沖縄は米軍占領下に置かれました。収容した住民から代表を選び、米軍政府と住民との連絡調整を行う「沖縄諮詢会(しじゅんかい)」が設置され、沖縄住民の自治活動がスタート。翌1946年4月には「沖縄民政府」に改編されました。
それに先立つ1946年1月、日本本土を占領して間接統治を行った連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は自らの施政下から沖縄などを分離する「覚書」を出し、以後、沖縄は米軍政府による直接統治という別の道をたどります。 1950年12月、米軍政府に代わって「琉球列島米国民政府」(USCAR、ユースカー=United States Civil Administration of the Ryukyu Islands)が設置され、1952年4月にはその下部組織として「琉球政府」が設立されました。住民からは自治の拡大を求める声が出ていましたが、米国民政府の発足後も軍政の実態は変わりませんでした。