【図解】沖縄返還50年 戦後からこれまでを振り返る 坂東太郎のよく分かる時事用語
「核抜き・本土並み」沖縄が本土復帰
1960年代は冷戦のさなかで米国は軍事費を増大させ、さらに本格参戦後のベトナム戦争での出費もかさみました。皮肉にも西側陣営の日欧経済が発展し、米国経済の圧倒的優位性を失ったのです。沖縄への援助も停滞。代わって日本政府の援助が急増します。 ゆえに米軍直接統治でかかる負担よりも、施政権を日本に返還して日米安全保障条約の下で基地を維持する方が得策という考え方が浮上してきました。日本本土も「島ぐるみ闘争」以降、国民が沖縄の祖国復帰運動に賛同し始め、1965年に沖縄を訪れた佐藤栄作首相が「沖縄の祖国復帰なくして、日本の戦後は終わらない」との声明を発表。1969年の日米首脳会談で1972年中の沖縄返還で原則合意。衛星テレビ中継もされた1971年の沖縄返還協定への調印を経て、「核抜き・本土並み」の条件で沖縄の本土復帰が実現したのです。
“アメリカだった沖縄”から観光立県へ
復帰後は沖縄でのさまざまな変化が報道されました。米軍統治下の沖縄では長らく米軍が発行するB型軍票(B円)が通貨として使われ、1958年からは米ドルに変更されていましたが、本土復帰に伴い、使用通貨が日本円へ切り替えられました。1978年には日本の道路交通法を適用し、7月30日から自動車は左側通行に変更されました。 1975年には復帰記念事業の柱と位置づけられた「沖縄国際海洋博覧会」が開催されました。目玉として人工島「アクアポリス」が造られ、関連投資で高速道路も建設されました。博覧会終了後は、跡地に海洋博公園がオープンし、アクアポリスも再オープン(1993年閉館)。海洋生物園はその後、沖縄美ら海水族館(2002年開園)へと引き継がれました。 戦後の沖縄は、観光を成長分野と位置づけて推進してきました。沖縄戦で焼失した首里城は正殿などが復元され、1992年に一部が開園(2019年に再び焼失)。2000年には「九州・沖縄サミット」の開催地となり、首脳会議が開かれました。観光客は右肩上がりに増えていき、2018年度に初めて1000万人を超えました。 もっとも、米軍統治下で使われていた軍票やドルが日本円に比して購買力が高かったために育っていなかった建設・製造業など第2次産業の振興は頓挫。石油コンビナート建設計画なども折しも本土で社会問題化していた公害への不安・不信から進みませんでした。製造業の弱さは現在でも他地域と比べて際立っていて、言い換えると、その分を観光で補っているともいえるかもしれません。