【図解】沖縄返還50年 戦後からこれまでを振り返る 坂東太郎のよく分かる時事用語
講和条約の発効と「島ぐるみ闘争」
背景には、1952年4月28日に発効した「サンフランシスコ講和条約(サ条約)」の存在があります。同条約によって日本は独立国として主権を回復する一方、沖縄は日本の施政権から分離され、国際連合が設けた信託統治制度の下に置かれるとされました。施政権こそ米国ながら自治・自立を促し人権も尊重される制度です。ただし、サ条約は同制度の適用をアメリカが提案するまで従前の統治が続けられる、ともしました。 結局「提案」はなされず、沖縄の米軍による「占領統治」が継続されました。後に「沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)」が、4月28日を「屈辱の日」と名づけたゆえんです。 戦後から1950年代にかけて、アメリカの極東戦略に重大な影響を及ぼす出来事が相次いで発生しました。米国を中心とする資本主義陣営(西側)とソビエト連邦(ソ連)を中心とする社会主義陣営(東側)が対立した「冷戦」が始まる中、1949年にはソ連が原爆の核実験に成功し、巨大な社会主義国として中華人民共和国も成立。1950年には朝鮮戦争が勃発します。米国はこうした状況に対応すべく、沖縄に恒久的な軍事基地建設を進め、極東防衛の一線に置く構想を強めていきました。 その中で、軍用地を確保するために「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる米軍による強制的な土地接収が行われました。サ条約発効後も、現在の那覇市や宜野湾市周辺では、武装した米兵がブルドーザーで住民の耕作地などを敷きならしていきました。 さらに、米国民政府は軍用地代について一括支払いの方針を示し、これがいわば「一度だけ家賃を払えばずっと住める」に等しい事実上の「土地買い上げ」だと住民の怒りが沸点に達し、1956年の「島ぐるみ闘争」へと発展しました。 戦後の沖縄には当初、米軍統治を解放と捉えて歓迎する考え方がありました。しかし「民政」とは名ばかりで上記のような基地化を進める姿勢を鮮明に打ち出す過程で反発が強まり、次第に日本復帰を望む声が高まってきたのです。そして1960年。本土で安保闘争が吹き荒れた時期に沖縄を訪問したアイゼンハワー米大統領を大群衆のデモで迎えたのです