「零戦でもっとも戦った搭乗員」が戦後、自分の生活を犠牲にしてでも続けた「慰霊行脚」
戦死者のことが頭から離れない
日本が高度成長期に入りつつあった昭和30年頃からは、農作業の合間をみては東京・北千住のメッキ工場に季節労働者として通うようになった。農繁期は農業に専念し、畑でサツマイモ、白菜、大根、スイカなどを収穫しては東京の市場に届ける。 農閑期には毎朝4時に起き、牛の飼料の草刈をして6時の汽車で北千住に出、工場で残業をして夜10時に帰ってくるという生活で、文字どおり寝食を忘れて働き通しに働いた。 しかし、その間も戦死した人たちのことは頭を離れることはなく、常磐線に乗って往復4時間、立ちっぱなしの満員電車のなかで、1人1人の若い顔やその最期を思い出しては涙が溢れ、周囲の人に気づかれないよう、ハンカチでそっと目を押さえたりしていたという。 昭和39年、自宅を新築した頃からは、いくつかの戦友会にも参加することができるようになった。ところが、ようやく生活も落ちついてきたと思った昭和44(1969)年、妻が脳溢血で急逝する。妻の死を一つの転機として、角田は戦友たちの慰霊の旅をはじめた。 まずは遺族を探そうと、時間を見つけては早朝から厚生省を訪れた。開館と同時に戦死者名簿を出してもらい、本籍地を確認し、昼食も抜いて閉館まで筆記した。戦闘記録はどうなっているか、防衛庁の図書館にもしばしば出かけた。そして戦死者の本籍が判明するたび、手紙を出したが、返事がなかったり、宛先不明で返ってくることも多かった。
遺族の元を訪ねることに
昭和49(1974)年、角田は、かつての部下・鈴村善一から、 「宮崎県の同期生・櫻森文雄飛長(飛行兵長)のお墓参りに行きたいが、それには最後の体当りを直接見届けた分隊士に説明してもらうのがいちばんよいと思います。遺族の前では話しにくいでしょうが、当時の状況は私からもよく話しますから、ぜひ同行してください」 と頼まれた。角田が開拓農家で苦労していることは鈴村もよく知っている。名古屋市内で「八剣工業所」という金属加工の町工場を営んでいる鈴村もけっして楽な生活ではなかったが、必死に働いて得た私財を、戦死した戦友のため、遺族のために惜しげもなく注ぎ込んでいる。鈴村は言った。 「費用が大変でしょうが、全部私が持つと言っては失礼ですから、名古屋駅までは自費で来てください。あとは旅費、宿泊費など帰宅するまで一切私にお任せください。責任をもってお届けしますから」 生活状況まで見抜いての丁重な要請に、角田は列機の厚意に甘えて応じることにした。そして、せっかくだからとほかの戦没特攻隊員たちの遺族も巡ることにした。