「零戦でもっとも戦った搭乗員」が戦後、自分の生活を犠牲にしてでも続けた「慰霊行脚」
「生きてさえいれば」
焼け残った市外の小学校で復員手続きを終え、30日、隊員たちは復員列車に乗せられて、流れ解散の形でおのおのの郷里に帰ることになる。 夜通し汽車に揺られて、31日早朝、広島駅に到着すると、ここも一面の焦土だった。だが、原爆の跡には百年は草木も生えないと聞かされていていたのに、瓦礫を片づけたところどころに蒔かれた麦が力強く芽吹いているのが見え、その青さが角田の目に沁みた。 「生きてさえいればなんとか暮らせるのか」 と、角田は思った。 房総半島の突端近くに帰る角田は、東京駅で総武線に乗り換え、昭和21(1946)年元日、故郷の南三原の駅に着いた。 角田はさっそく、生家の農作業の手伝いをしながら、職を探した。そんなある日、角田はGHQの占領政策を聞かされて驚いたという。 「財閥解体、農地解放。昭和11年の二・二六事件で、青年将校がやろうとしていたことと同じじゃないかと。それをアメリカがやってくれて、これは一体どうなってるんだ、と思いました。俺たちは何のために戦争してたんだろうと思って、心底がっかりしましたよ」 昭和21年夏、妻の実家のある常磐線友部駅で降りると、二〇五空で同年兵だった草地武夫少尉とばったり出会った。草地は、茨城県にできた緊急開拓食糧増産隊に入っているという。昭和21年4月に発足したばかりの一期生で、ここで1年間、農家を助けて食糧増産に働けば、新しい開拓地が一町五反(約1.5ヘクタール)払い下げてもらえ、自作農になることができる。
農家として生きることを決意
「どこへ行っても公職追放で就職は無理だから、百姓になろうよ。土地さえ確保しておけば、また羽を伸ばすこともできるよ」 草地も農家の次男で、子供が3人いる。角田と似た境遇だった。 「一生奉公できると、大船に乗ったつもりでいた海軍でさえ潰れちゃうんだから、こんど就職するときは、いつ会社が潰れても安心して帰れるところをつくっておいてから出直そうよ。いま、11月1日入隊予定の三期生の募集が行われている。奥さんの実家に寄留して茨城県民になれば応募資格はできるよ」 草地の熱心な勧誘に心が動いた。確かに、食糧増産は急務だ。腹が減っては戦はできない。――突然のように、フィリピン・ルソン島で、サツマイモ2本と塩湯を口にしただけでリンガエン湾の米軍輸送船団に突っ込んでいった特攻隊の戦友のことが思い出された。角田は、これからは土とともに生きていくことを決意した。 開拓農民になった角田は、持ち前の誠実さで地主たちと交渉し、雑木林を払い下げてもらうことができた。そして7坪の小屋を建て、妻、4人の子供たちと6人家族で暮らし始めた。 このあたりの土地は、火山性灰土の酸性土壌で、農業には不向きである。そこで、まずは鶏を飼い、鶏糞を肥料にし、つぎに豚、牛と飼ってその糞も肥料にして、根気よく土地を肥やしていった。昭和30(1955)年、同じ7坪ながら大工に小屋を建て直してもらい、母を呼び寄せる。6人家族が7人家族になり、1人1坪の暮らしは、念願の家を新築する昭和39年(1964)まで続いた。昭和29(1954)年には、新たに発足した航空自衛隊から、入隊するよう再三の勧誘を受けたが、 「二度と飛行機は操縦するまい、戦争はするまい」 と、かたくなに拒み続けた。