「零戦でもっとも戦った搭乗員」が戦後、自分の生活を犠牲にしてでも続けた「慰霊行脚」
遺族から詰問されたことも
遺族のなかには、息子や兄弟を失い、国を恨んでいる人もいた。同姓の別人に誤って戦死公報が届き、本人の遺族には公報さえ届いていない人もいて、 「今頃になって戦死していたとは、どういうことだ。貴方が責任をとってくれるのか」 と、詰問されたこともある。 「うちの息子は死んだのに、どうして貴方は生きてるんだ」 「大勢の中からうちの息子を選んだのは誰か、教えてほしい」 と責められたこともしばしばだった。 昭和19年12月15日、特攻隊(第七金剛隊)直掩機として戦死した若林良茂上飛曹の遺族は、本人が飛行機の搭乗員になっていたことすら知らずにいた。
親に嘘をついてまで
飛行機の搭乗員を目指すには、親の同意書がいる。母1人子1人の若林は、飛行機乗りへの夢を母親に反対され、徴兵で海軍に入ると同意書を自分でつくり、部内選抜の丙種予科練に合格した。休暇で帰省したときも、母に手紙を書くときも、飛行機の話は一言も出さず、飛行服姿の写真も送ってこなかった。 角田が群馬県に暮らす若林の母を訪ねると、商店の裏の6畳ほどの倉庫のような建物に、若林の母は1人で暮らしていた。うす暗い部屋には仏壇代わりのリンゴ箱が2つ置かれ、その上に息子の位牌と、白い事業服姿の写真が飾ってあったという。 そんな遺族の深い悲しみに触れるたび、角田の心も痛んだ。角田には、 「国のため、家族のため、一生懸命戦ったのですから誉めてあげてください」 としか言えなかった。 角田の慰霊の旅は北海道を除く日本全国、また硫黄島、台湾、ニューギニア、ソロモン諸島にまでおよぶ。 遺族にとって、息子や兄弟を戦争で亡くした悲しみは、過ぎ去った昔のことではなく、生々しい「いま」である。そんな遺族の姿に接していると、 「昨日の敵は今日の友」 とばかりにアメリカ人と仲直りするというのは、角田にとって考えられないことだった。
仲間を殺されて黙ってはいられない
「偏狭な考えだと言われてもいい。かわいい部下を大勢殺されて、いまさらアメリカと仲良くなんてできるもんですか」 と、角田はつねづね語っていた。昭和50年代、元零戦搭乗員の集いに、「エース」と称する元米軍パイロットが来たさいにも、 「エースだと? 貴様、俺の仲間を何人殺したんだ。何をのこのこ日本に来たんだ」 と詰め寄り、周囲をはらはらさせている。 昭和52年8月、特攻隊慰霊祭のため、関係者とともにフィリピンへ渡ったとき、角田は、一行で最年長だった櫻森飛長の80歳になった父親に、櫻森機の最期の状況を、終焉の地であるレイテ湾を臨みながら報告した。 「この湾に、隙間がないほど敵の艦艇が集まっていました」 角田は言った。 「長官か参謀を零戦に乗せて、その様子を見せたかった。見た上で、命令してほしかった」 あの戦いの日、連合軍の艦船でいっぱいだった広いレイテ湾には、一隻の船も、また一機の飛行機の姿も見えず、ただ真青に晴れた空と海が広がっていた。