「零戦でもっとも戦った搭乗員」が戦後、自分の生活を犠牲にしてでも続けた「慰霊行脚」
遺族との思わぬ出会い
最初に会ったのは17歳で特攻戦死した櫻森文雄飛長の両親である。櫻森の生家は都城でタバコ農家を営んでいた。息子の最期の状況を伝えることに躊躇いはあったが、櫻森の両親は温かく迎えてくれた。次に向かったのは、鹿児島の小原俊弘上飛曹方である。深夜の鹿児島駅に降り立った角田と鈴村は、駅前の旅館に投宿した。旅館で聞くと、 「ここらへんは小原姓が多く、探すのは大変ですよ」 と言う。それでも翌朝、旅館の車を出してもらって、本籍地あたりを訪ね歩いたら、3軒めで小原上飛曹の実家を探し当てることができた。偶然、その日は祝い事で親戚がその家に集まることになっており、角田ははからずも、小原上飛曹の親族一同の前で当時の状況の話をすることができた。 次に向かったのは、水俣の崎田清一飛曹の実家である。川沿いに山を背にした狭い斜面の段々畑と、石垣で区切った水田のある場所で、生活が楽でないであろうことは農家の角田には一目でわかる。 崎田家は、崎田の兄が戦死、弟の崎田一飛曹も18歳の若さで特攻戦死、跡継ぎの男子がいなくなり、兄嫁に婿をとって家を継いでいた。両親もいまは亡く、崎田の血縁者は姉しかいない。だが姉はこの日、仕事が抜けられないとのことで会うことができなかった。 その晩は水俣の旅館に泊まることにした。すると翌朝、布団を上げにきた旅館の仲居が、なんと崎田の姉だった。昨夜、実家にこういう客があったと聞き、もしやと思って係を代わってもらい、部屋に来たのだという。
親御さんが元気なうちに
崎田清は、小学校の成績が抜群で、先生が、授業料を援助してでも中学校に行かせようとしたほど聡明な少年だった。それでも崎田の姉は、先生の厚意に甘えることなく、北九州の織物工場で働いて弟の学費を稼いだのだ。 「それで婚期を逃して、旅館で働いています」 と、崎田の姉は微笑んだ。 山下憲行一飛曹の母、谷本逸司中尉の母とも会うことができた。谷本中尉は昭和20年5月4日、角田が英空母への突入を確認している。しかし、遺族に届いた戦死公報の日付が曖昧だったため、谷本の母は、息子がもしや生きているのではと一縷の望みをもち、深夜、道路の靴音が玄関前で止まったように聞こえるたび、「帰ってきたの?」と目を覚ましたという。 この4泊5日の旅を通じ、いまだ癒えない遺族の心情に接したことで、角田は、 「これは親御さんの丈夫なうちに、一生懸命自分で回らないといけない」 と思ったという。 「子供たちと相談して、出稼ぎに行った農閑期の金は俺にくれ、遺族をまわってお参りするから、とそれから本格的に始まったんです」 義理堅い鈴村は、そんな角田にいつも影のように寄り添い、戦友会にも一緒に出た。