「零戦でもっとも戦った搭乗員」が戦後、自分の生活を犠牲にしてでも続けた「慰霊行脚」
痛々しいほどに若い顔の遺影
杖を頼りにベッドの横にある質素な木の椅子に腰を下ろすと、目の前の机の上には般若心経の経典と鈴(りん)、遺影のアルバムが置かれている。 アルバムは、戦後、角田が慰霊祭のために作ったもので、遺族を訪ね歩いて集めた遺影の多くは、当人たちが海軍に入ったときや飛行練習生時代に撮られた集合写真の顔の部分だけを切り取り、戦死後、特別進級した階級の服装に写真館が着せ替えた合成写真である。 角田はこれを、ソロモンやフィリピンでの慰霊祭に行くときも、靖国神社に参拝するときにも、肌身離さず持ち歩いた。慰霊祭が始まり、アルバムを広げると、なぜか決まって雨が降る。そのため、畳んだときに写真同士がくっついてしまい、何人かの遺影は傷んでしまった。 新しく写真をプリントできればいいのだが、原板がすでに失われているものもあるし、慰霊祭で降る雨は彼らの涙のような気がして、そのままにしている。 写真のなかの顔は、みな痛々しいほどに年若い。 彼らの顔をじっと見つめ、無心に般若心経を唱えていると、一人一人の最期の状況が、まざまざと角田の脳裏に甦ってくる。 特攻隊の直掩機として出撃したさい、一番機が突入した敵空母の飛行甲板の穴を狙って突っ込んだ二番機、被弾して火の玉のようになりながらも最後まで操縦を誤らず、一直線に敵空母に体当りした三番機。出撃の時の屈託のない笑顔。・・・・・・そんな情景が、つい最近のことのように鮮明に思い出されたのだ。
戦没者を悼んで唱えるお経
夕食のあとは、夜十一時過ぎまで起きて本を読んでは物思いに耽り、ベッドに入ると、戦没者177名の氏名を「南無阿弥陀仏」とともに唱える。 「崎田清、南無阿弥陀仏。廣田幸宜、南無阿弥陀仏。山下憲行、南無阿弥陀仏。山澤貞勝、南無阿弥陀仏。鈴木鐘一、南無阿弥陀仏。櫻森文雄、南無阿弥陀仏。新井康平、南無阿弥陀仏。大川善雄、南無阿弥陀仏。・・・・・・」 心をこめて名前を唱えていると、彼らのまだ幼さを残した顔や、戦後、訪ねた遺族のことなどが脳裏に浮かんでくる。その1人1人が、角田には愛しくてならない。 つとめて全員の名前を唱えようと努力するが、晩年は途中で眠りに落ちてしまうことが多く、 「昨夜も途中までしか唱えられなかった。許してくれよ」 と、目覚めてから詫びるのである。 特攻部隊である台湾の第二〇五海軍航空隊で終戦を迎えた角田は、昭和20(1945)年12月26日、突然の帰国命令を受け、基隆港の倉庫で一泊ののち、12月27日、兵装を撤去した小型海防艦にすし詰めの状態で乗せられ、台湾をあとにした。 12月29日、鹿児島に上陸すると、そこは一面の焼け野原だった。海軍の飛行場があってなじみの深かった鹿児島の街は、山形屋デパートの残骸にかろうじて面影をとどめるのみで、完全に瓦礫の山と化していた。