19歳で初紅白、23歳で結婚→引退を決めたことも…石川さゆり(66)が抱えていた“歌手としての葛藤”「新曲を出しているのに、どうして?って…」〈紅組最多出場〉
石川さゆりが2024年もNHK『紅白歌合戦』への出場を決めた。これにより彼女は自身の持つ紅組歌手の歴代最多出場記録を更新し、通算47回目となる。今年歌うのは「能登半島」に決まった。意外なことにこれまで同曲を石川が紅白で披露したのは2003年だけで、今回が2度目である。今年この曲が選ばれたのは、元日に大地震、9月には豪雨により大きな被害を受けた能登半島の人たちにエールを送るためであることは間違いない。 【画像】長女を抱える石川さゆりと23歳で結婚した7歳上の元夫
阿久悠の勘違いから生まれた「能登半島」
「能登半島」は、その前作で石川にブレイクをもたらした代表曲「津軽海峡・冬景色」と同じく作詞家の阿久悠、作曲家の三木たかしのコンビが手がけ、1977年5月にリリースされた。 この曲をめぐっては、石川がことあるごとに語ってきた裏話がある。阿久は同年1月リリースの「津軽海峡・冬景色」がヒットすると「次はさゆりが故郷に錦を飾れる歌を書いてあげよう」と言ってくれたが、どうやら彼女の名字から石川県出身と勘違いしていたらしく、能登半島を舞台にしたこの歌が届いたというのだ(『週刊ポスト』2021年8月13日号、『週刊読売』1998年3月8日号)。 そんないきさつがあったとはいえ、「津軽海峡・冬景色」が破竹の勢いで売れるなかで発売された「能登半島」も、次作の高知が舞台の「暖流」(1977年9月発売)もあいついでヒットし、ファンのあいだでは「旅情3部作」としていまなお親しまれている。 なお、その後、彼女は何かの折に「私、石川というのは本名で、ふるさとはじつは熊本なんです」と阿久に話すと、彼は改めて「火の国へ」という歌を書いてくれたという(『週刊読売』1998年3月8日号)。この曲は1978年にリリースされ、前年に「津軽海峡・冬景色」を歌ったのに続き、2回目の出場を果たしたその年の紅白でも披露した。
デビューのきっかけは…
ブレイクするまで石川は紆余曲折を経験している。そもそも彼女のデビューのきっかけは、横浜に住んでいた中学3年の夏休み、歌謡教室の友達に代わって出場したフジテレビの『ちびっこ歌謡大会』で優勝したことだ。ここから同局のドラマ『光る海』に出演、プロデューサーだった岡田太郎(今年9月に94歳で死去)から本名の絹代に変えて「さゆり」という芸名をつけてもらう。ちなみに岡田はこの翌年、女優の吉永小百合と結婚している。 歌手志望だったためドラマ出演は本意ではなかったが、結果的に石川はそのおかげで芸能事務所のホリプロにスカウトされ、翌1973年3月には「かくれんぼ」という曲でデビューすることができた。 彼女と前後してやはりホリプロからデビューしたのが1学年下にあたる森昌子と山口百恵である。当初、事務所は彼女たちを「ホリプロ3人娘」として売り出す計画であったが、ほかの2人は同じく『スター誕生!』出身の桜田淳子とともに「スタ誕3人娘」として先に売れた。このため、デビュー曲がヒットとまではいかなかった石川だけ宙ぶらりんになってしまう。 当時から歌唱力は10代歌手のなかでも折り紙付きではあったが、ヒットに恵まれない時期が高校に入ってからも続いた。1976年3月に高校を卒業してからも、前出の阿久悠と三木たかしのコンビが「十九の純情」「あいあい傘」「花供養」と曲をあいついで提供するも、空振りに終わる。