19歳で初紅白、23歳で結婚→引退を決めたことも…石川さゆり(66)が抱えていた“歌手としての葛藤”「新曲を出しているのに、どうして?って…」〈紅組最多出場〉
良妻賢母のイメージを破壊しようとして生まれた「天城越え」
「波止場しぐれ」を作詞した吉岡治が、同年7月に出す新曲で「これまでの石川さゆりを壊す。良妻賢母のイメージをぶち壊そう」と提案し、伊豆の宿に作曲家の弦哲也、レコードディレクターの中村一好と集まってひそかに議論を重ねていたのも、そのころだった。ここから生まれたのが、彼女の代表曲の一つとなる「天城越え」である。 もっとも、当の石川はこの詞をもらったとき、夫の不倫現場に踏み込んだ妻が修羅場を演じるというその内容にひどく戸惑ったという。当初は「こんなの私の歌ではありません」と拒否したものの、それこそ吉岡の思惑どおりであった。結局、彼女は悩みに悩んだ末、自分を吹っ切ることでこの歌を受け入れる。
紅白が変えた「天城越え」
曲を手がけた弦も、この歌に作曲家としての自分の将来をかけて苦闘したようだ。ディレクターの中村は「この歌でさゆりに、初の紅白のトリをとらせてみせる」と意気込み、和楽器を採り入れるなど工夫を重ねた。こうして全員の思いを結集して「天城越え」はリリースされ、中村の宣言どおり、この年の紅白で石川は同曲で初めて紅組のトリを飾った。発売年の売り上げは4万枚とさほどでもなかったのが、紅白をきっかけに売れ始めたという。 ちなみにその前年、1985年の紅白で紅組のトリを務めたのは事務所の同輩の森昌子である。このとき森は、翌年に歌手の森進一との結婚にともない引退を控えていた。最後となる紅白のステージでは、森が紅組歌手らに囲まれながら石川と一緒に歌った。
「一人の女性としてどう生きてるかという部分を応援してもらえる時代になった」
じつは石川もまた、出産に際してホリプロと契約を解除してもらい、形のうえでは“引退”していたという。《もちろん、「また仕事ができそうなら、その時はお世話になります」という言葉を添えてでしたが、私の心の中では本当に引退、というか仕事を白紙の状態にして出産に専念したかったのです》と、後年その事実を公表している(『週刊読売』1998年4月12日号)。 このときの選択には、本人に言わせると不器用で、何事も100か0か白黒はっきりさせなければ気が済まないという石川自身の性格によるところもあったのだろう。ただ、一方で、彼女がそうせざるをえなかったのは、女性が結婚・出産後も仕事を続けていくことがまだ社会全体で受け入れられていなかったから、という見方もできるのではないか。 それでも石川の実感では、そうした風潮もしだいに変わっていく。のちには《私が「結婚します」とか「子どもを生みます」って言った頃は、結婚=引退が当たり前で「じゃ、もう歌手生命お終いね」っていう時代だったんです。それが、結婚して、子どもを生んで育てるうちに、時代が虚像をつくるんじゃなくて、一人の女性としてどう生きてるかという部分を応援してくれるように変わって行ったような気がしますね》と語っている(『週刊文春』2004年7月22日号)。