19歳で初紅白、23歳で結婚→引退を決めたことも…石川さゆり(66)が抱えていた“歌手としての葛藤”「新曲を出しているのに、どうして?って…」〈紅組最多出場〉
「津軽海峡・冬景色」の誕生秘話
しかし、この年の10月、石川が大阪・新歌舞伎座でのワンマンショーで最後に歌った曲にひときわ大きな拍手が起こり、ショーのあとも事務所やレコード会社に問い合わせがあいついだ。それは、1年の各月ごとに日本中舞台を変えて女の恋を歌うというコンセプトで阿久と三木が企画したアルバム『365日恋もよう』(同年11月発売)の1曲だった。現場での反響を伝え聞いたホリプロ社長の堀威夫(当時)はすぐさまレコード会社の日本コロムビアと話し合い、その曲をシングルカットして翌1977年の年明けに発売してもらう。この曲こそ「津軽海峡・冬景色」であった。 その発売の前日の大晦日、紅白のステージに立つ森昌子や山口百恵を、石川はこたつに入りながらテレビで見ていたという。《ことさらライバル意識のなかった私ですが、同じ歌手として悔しくないといえば噓になります》と、このときの心情をのちに吐露している(『週刊読売』1998年2月22日号)。
そうした思いも重なり、新曲キャンペーンにはそれまでになく力が入ったようだ。全国各地まわった先々でも「これは売れるよ」と好評であった。実際、3月に入ると急に売れ始め、50万枚に達するのに時間はかからなかった。先述のとおり5月にリリースされた「能登半島」もこの勢いに乗り、40万枚を売り上げる。 このあと9月には「暖流」のリリースが控えていたが、レコード会社は「津軽海峡・冬景色」をさらに100万枚まで伸ばすためセールスを強化するので発売を延期したいと言ってきた。しかし堀威夫は「熾火(おきび)を消すな。売れているときに、次の曲をきちんと出さないと、歌手の寿命は短くなってしまう」と猛然と反対、予定どおり発売させた(『朝日新聞』2003年2月22日付朝刊)。 これが功を奏して「暖流」も25万枚を売り上げ、3作合わせて144万枚のセールスを達成、石川は歌手として確実に地歩を固めた。1977年末には数々の音楽賞を受賞し、前年悔しい思いで見ていた紅白にも初出場を果たしたのだった。このとき石川は緊張するどころか、《うれしくてしかたない上、見るものすべて珍しく、/――お、これが紅白歌合戦のセットかァ…!/要するにオノボリさん歌手状態で、その状態のまま歌い終えてしまった》とか(『週刊読売』1998年3月1日号)。